猿の教え 

 1989年、両親がわたしに会いにやってきた。わたしは彼らをムンバイ近くの島にある人気スポット、エレファント洞窟に連れて行った。フェリーで島に着いたあと、わたしたちは森の中を通る未舗装の山道を歩いていた。突然、猿が木の上から飛び降りてきて、母のハンドバッグをつかんだ。シカゴの郊外居住者にとってはカルチャーショックだった。母は叫び声をあげた。しかしそれでも彼女はハンドバッグを手放さなかった。人と猿の綱引きがはじまった。猿は歯をむき出し、キーキー叫びながら、牙を見せて母に飛びかかり、ついには母からハンドバッグを奪い取った。そして猿はピーパル樹を駆け上った。

 猿の襲撃で両親はすっかり意気消沈した。それは突然のできごとだったからだけでなく、ハンドバッグの中に二人のパスポート、エア・チケット、クレジットカード、すべてのキャッシュが入っていたからだった。

「すべてを失った」父はショックが多少やわらいだ頃にため息をつきながら言った。「それでどうなるんだ?」

 母はわたしのほうを向いた。「あなたがここに連れてきたのよ。こういう場合どうすればいいの」

 わたしは目を閉じて祈りの言葉を口にした。インドで多くの時間を費やした者ならだれでも知っているように、盗んだ物を返すように猿に「説得する」のは簡単なことではなかった。

 しかし五十メートルほど離れたところに、果物満載の手押し車を押しているフルーツ売りを見つけた。わたしは急いでそこへ駆けつけ、一本のバナナを無心した。彼はお金を要求した。しかしわたしは現金を持っていなかったし、両親も同様だった。わたしはあわてて詫びをいれながら手押し車から一本のバナナを失敬し、走って逃げた。彼は叫び、棒を持ってわたしを追いかけようとした。しかし彼が振り返ると、ほかの猿が手押し車に飛び乗っていた。怒ったフルーツ売りは第二の泥棒から商品を守るため、急いで持ち場に戻った。

 わたしがピーパル樹に戻ると、泥棒猿は高い枝の上にいた。母のハンドバッグは大きく開いていた。猿は夢中になって母のアメリカン・エクスプレス・カードを噛んでいた。狙いを定めてわたしはバナナを猿に投げつけた。幸いわたしの腕はあまりよくなかったので、バナナをつかむために猿はジャンプしないといけなかった。そのときにハンドバッグが下に落ちたのである。猿は嬉しそうにバナナの皮をむき、むしゃむしゃと食べ始めた。わたしはハンドバッグを母に返した。

 母はフルーツ売りに払う10ルピーをわたしに渡した(わたし自身は払うことを考えていなかった)。結局、フルーツ売りは喜び、わたしの両親もわたしも喜び、新鮮なバナナを味わうことができた猿もまた喜んでいるようだった。すべての者にとってウィンウィンが成り立ったのである。

 心(マインド)は、ひとつのことに集中するのをむつかしくさせる、トラブルメーカーの猿のように機能する。ある瞬間にもっとも重要なことは、ほかの何かがうまくいくと、重要でなくなる。すごく重要である必要すらない。バナナをもらった猿みたいに、わたしたちは心(マインド)に少し満足いくものを、利益になるものを与えれば、いともたやすく注意散漫を克服することができるのだ。

 ヨガの実験をはじめたとき、わたしは覚醒を、つまり平安の心(マインド)を探し求めていた。バクティ・ヨーガの教えは、わたしの理解に重大な洞察を加味してくれる。猿のような心(マインド)を静かにしておくことは極端にむつかしいので、それにより高い仕事を与えるのが効果的であることをわたしは学んだ。心(マインド)が、いかに考えるか、何を言うか、何をするか、といったより意味深い、満足させる思考パターンに関わるとき、嫉妬や利己的な情熱、怒りといったわたしたちの健全な状態に害を与える傾向は忘れられ、徐々に消えていく。バクティ・ヨーガはまた、敬虔な奉仕、マントラ瞑想、高揚する人々関連のダイナミックな人生が心(マインド)を安定させる精神性の土台を作り出すことを教えてくれる。わたしのスピリチュアル・カウンセリングの仕事の中で、繰り返しこれら精神生活の三つの構成要素が、悪い習慣を断ち、中毒を克服するのに、いかに人々に手段を与えることになるかについて聞いたことがある。

 精神的な実践は心(マインド)の健康的なつながりからはじまる。パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』のなかで与えられたヨーガの定義のひとつは、チッタ・ヴリッティ・ニローダハ(citta vritti nirodhaha)すなわち「ヨーガは心(マインド)の動揺を鎮めること」である。さまざまな坐り方あるいは坐法(アサーナ)によって、制御された呼吸法(プラナヤマ)によって、瞑想(ディヤーナ)によって実践するとき、ヨーガは表面的な散漫さから心(マインド)を抜き取り、内面にそれを集中するのを手助けする。『ヨーガ・スートラ』によれば、心(マインド)の動揺が収まったとき、自我はそれ自身の真の本性に収まるようになる。

 心(マインド)は自我によって使われる何かであり、ほかの方法があるわけではない。この真実を理解することによってわたしたちの内側にだれがいるのかがわかり、充足感に近づくことになる。

 この充足感とは何だろうか。

 それは愛である。愛は心(マインド)を制御するのにもっとも満足いく方法である。愛は魂の完璧な表現である。愛のなかにあるとき、愛する者に向かってわたしたちの思いは集中し、エネルギーは注がれる。わたしたちは「心ひとつに(single-minded)」に、すなわち、ひたむきになる。バクティが愛の生来の心(スピリット)を起こすとき、わたしたちはひたむきになる。

 だからこそわたしたちは心(マインド)の鏡をきれいにすることからはじめる。自分が真にだれであるか理解することができる。基礎がしっかりした知性の助けを借りて、わたしたちの心(マインド)はもっとも親しい友人になることができる。

 

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