内なる旅 

ヨーガとは何か 

アルジュナよ、義務を忠実に行え そして成功と失敗に関する 
あらゆる執着を捨てよ このような心の平静をヨーガというのだ 

    バガヴァッド・ギーター 2.48 

 

ドゥルヴァが得たもの 

バーガヴァタ・プラーナは、サマーディ、すなわちヨーガの実践の成就を五歳で成し遂げたドゥルヴァという名の子供の物語を語る。ドゥルヴァは王子だった。しかし運命は彼にほほえまなかった。彼の父は二番目の妻と結婚した。この若いほうの王妃とのあいだにもうひとりの息子が生まれた。若い妻を喜ばせるためにドゥルヴァの父はドゥルヴァを無視し、若い王妃の息子をひいきにした。ある日ドゥルヴァは弟といっしょに王座によじ登ろうとした。そして父の膝の上に坐った。しかしドゥルヴァの継母は彼を叱責した。「おまえ、いやしい女から生まれた子供にゃ、父親の王座に坐る権利などありゃしないよ。せいぜい神に祈りな。そしたら、つぎはあたしの子宮から生まれることができるかもしれないからね」

 国王はドゥルヴァが最初に生まれた子供で王統の跡継ぎであることを知っていたが、慎重になって何も言わないようにしていた。しかしドゥルヴァの心は張り裂けそうだった。継母の言葉以上に父親の裏切りによって。涙に暮れた彼は母親のスニティのもとに駆け寄った。スニティはあわれにも、ドゥルヴァの表情に、山火事で燃える葉っぱのような苦悶を見てとった。彼女の涙はドゥルヴァの屈辱を怒りに変えた。彼がいま欲していたのは正義だった。子供なりの考え方で、彼は父親の跡継ぎ以上に、王国そのものを自分のものにしよう誓った。

 スニティは息子をなだめようとした。「ほかの人が好まないようなことを願うんじゃないよ」と彼女は言った。「ほかの人に苦痛を与える者は、みな自分自身、おなじ苦痛を味わうものなのよ。わが子よ、あなたの絶望をやわらげることができるのは、至高の者、神だけよ」

 ドゥルヴァが至高の者にはどこで会えるのかとたずねると、スニティは森の聖者なら知っているだろうとこたえた。

 母が驚いたことに、若いドゥルヴァは即座に家を出て、深い森へと向かった。わたしたちが真摯に会いたいと願うなら、神はグルのもとへと導いてくれるという。神はドゥルヴァを名高い聖者ナーラダのもとへと送った。ナーラダは少年の決意の強さに感銘を受けたので、ヨーガ・アーサナや瞑想の仕方、マントラ<om namo bhagavate vasudevaya>(わたしはあらゆる場所に生きる無限の存在ヴァスデーヴァ、すなわちヴィシュヌを瞑想します)の唱え方を教えた。

 ナーラダの手ほどきによってドゥルヴァは森の奥深くに入っていき、最後にはヤムナー川のほとりのマドゥバンに到着した。彼はそこでナーラダから教えてもらったことを、老成したかのような忍耐ぶりで実践した。何か月かが過ぎた。その間ドゥルヴァは森の中で取れる根っこや果実で生き延びた。のちには水だけで生きていた。彼は日々教えられた聖なるマントラを唱え、アーサナをおこなって過ごした。

 しばらくすると、彼は肉体的要求を減らすことができるようになった。彼はまた心(ハート)の中の至高なる者の限りない美しさについて瞑想しながら、何週間も断食し、柱のように一本足で立ち続けた。およそ六か月後、彼はサマーディを成し遂げた。そして彼の聖なる愛の本質的な感情が目覚めた。

 突然彼が観察してきた心(ハート)の中の神の美しい姿が消えた。驚いた少年は目を開ける。彼の前に立っているのは彼の聖なるガイドである至高の存在、ヴィシュヌだった。ヴィシュヌの肌の色は美しい薄い青色で、手足の一つ一つが優美で、目に心地よかった。彼はドゥルヴァにほほえみかけた。少年の尋常でない信心が目を引いたのだ。

 ヴィシュヌは言った。「欲しているものがあれば、何でもわたしにたのめばいい」

 ドゥルヴァは富、権力、復讐を求めるヨーガの実践をはじめた。しかし至高の愛される者を瞑想することによって、心(ハート)にのしかかった重い感情を取り除くことができた。それらが重要だと考えていたことは愚かだった。「わが神よ」と彼は言った。「いまわたしが頼みたい唯一のことは、いつもあなたのことを思い出せることと、あなたにつかえることです」

「おまえが欲していた王国はどうなんだね。父親のことより重要だったのではないか」とヴィシュヌはたずねた。

 ドゥルヴァはこたえた。「わたしは割れたガラスの破片を探していました。でもあなたの思いやりのおかげであなたの愛の中に稀有なる宝石を発見したのです」

 ギーターの6章はこの愛をヨーガの完成として描いている。この章はつぎの詩篇によって結論づけている。

 

あらゆるヨーギの中で、大いなる信仰心を持っていつもわたしの中にいて、彼らの中にわたしのことを考え、わたしに敬虔に奉仕する人たち。彼らはヨーガによってわたしとひとつになる。彼らは最高のヨーギ―である。

      バガヴァッド・ギーター 647

 

 わが師は、神が受け取るのはわれわれのささげものだけではない、心の底からの考えや謙虚な心も受け取るのだと語った。ヨーガの実践は心を浄化することであり、自己認識を深めることであり、真の自分を見いだすことである。純粋な愛は、自分自身や神に対して正直なときのみ可能である。ゆえに自己認識と謙虚さは分けられないのである。個人にとって、バクティの道におけるヨーガの完成は、プレーマ、すなわち純粋な愛を吸収することである。

 

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