ヨーガの解放の原理:道を進む手助けをする 

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 ヨーガは心(ハート)を浄化する科学であり、神、自然、その他との精神的調和のなかでの生きる楽しみの経験である。それは品性を育むことから始まる。すなわちより高次の理由のために個人的に捧げものをするということ、誘惑、あるいは恐怖に直面し、正しい選択をすること、自己の興味以前に他者の利益に関心を持つことである。

 ヨーガのすべての流派は修業において、倫理行動を基礎とするのが原則である。それは純粋なる進歩に欠かせないのである。これらの原則は、あるいは遵守は、行動や態度と関係がある。そしてそれはアシュタンガ・ヨーガのシステムではヤマス(倫理的修練)、二ヤマス(訓練された実践)として知られる。わたしはしばしばこれらの行動規範がバクティ・ヨーガの観点からどのように見られるのかとたずねられた。このあとこのトピックについて説明していきたい。

 最初の行動規範はアヒンサ、非暴力である。すべての生きるものに対し、行動、言葉、そして人間的にできうるかぎり、思考によって、害を与えないこと。これは、自我を覆い隠すだけのネガティブなカルマがさらに蓄積しないように、守ってくれるのだ。聖書においてアヒンサと同等と思われる一節は、「人にしてもらいたいことは、他の人にもしなさい」である。論理的に言えば、聖書はそれと反対の言いかたもできるはずである。すなわち「自分がされたくないことを、他人にするな」と。

 アヒンサの実践には、尊敬の念を持つこと、忍耐強くあること、寛容であること、すなわち非暴力も含まれる。バガヴァッド・ギーターは、ヨーギはすべての生きる者の心(ハート)の中に聖なるものを見ると教える。それゆえすべての生きる者がうまくいくことを願う。わたしたちはヨーガにある程度熟達すると、他人の苦悩は自分の苦悩だと感じ、他人の幸せは自分の幸せだと感じるようになる。この考え方で言うなら、思いやりはアヒンサの基礎である。

 バクティ・ヨーギたちが菜食主義を選ぶ第一の理由は、このアヒンサである。その目的は、他の生きものに与える苦しみを最小限に抑えることだ。人間が痛みを感じるように、動物も痛みを感じる。動物も感情を表現し、子どもを愛し、その接し方はわたしたちとそんなに変わらない。

 

 わたしの親友シャロンとデヴィッドはこれについての感動的な話をしてくれたことがある。インドの由緒ある都市ヴァラナシにいたとき、食べ物を必死に探している三本足の雌犬の話を教えてくれた。欧米の犬は普通ペットとして飼われているが、インドの犬は路上で暮らしている。そこでは食べ物にありつくためには激しい競争に打ち勝たねばならない。シャロンとデヴィッドはシンパシーを感じ、野良犬たちにエサを与えるため少し離れた店にパンを買いに行った。時を置かず、彼らは腹をすかした野良犬の群れに取り囲まれた。犬どもは取っ組み合いのけんかをはじめ、パンに飛びかかり、ひったくったものをガツガツと食い始めた。

 友人たちは一匹の犬の存在に気づいた。犬は体を一方にかしげて踏ん張り、自分の番が回ってくるのをおとなしく待っていた。ほかの犬が食い終わったあと、この犬は頭を下げて彼らのところに近づいた。シャロンがパンの一片を差し出すと、犬はその目に感謝の色を浮かべながらおだやかにそれを受け取った。興味深いことに犬はそれを食べず、口にはさんだままよたよたと歩き去った。

 好奇心に駆られてシャロンとデヴィッドは、犬はつぎに何をするのだろうと思い、あとを追った。1ブロックほど行って、犬は大きな手押し車の下にもぐりこんだ。覗き込むと、彼らが追っていた三本足の犬がいた。この雌犬の脇には一匹の子犬がいて、腹部にしがみついていた。そこには雄犬がいたが、まだパンを一口もかじっていなかった。雄犬は一片のパンをやさしく子犬の口に置いた。子犬がむさぼり食べるのを、親の二匹はあきらかにお腹を空かせていたが、親の愛情のまなざしで見守っていた。その様子見たふたりの人間は心を動かさずにいられなかった。

 このような話はたくさんあった。わたしたちはまるで彼らが魂のない生きものであるかのように動物を食べている。20世紀初頭のよく知られたヨーギ、ヴァスワニは言う。

 

すべての殺しは愛の否定である。なぜなら、殺すこと、あるいは他者が殺したものを食べることは、残酷な行為を楽しむということだから。残酷な行為はわれわれの心(ハート)を硬化させ、見えなくさせ、われわれが殺した者たちが「生命がみな兄弟であること」をわからなくさせているのである。

 

 生命の聖域に敬意を払い、思いやりの精神を拡張すればするほど、わたしたちは自分自身の精神的本性とのつながりを深めていく。

 

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