内なる旅 

バクティとは何か 

わたしはあなたの愛に報いることができない。

あなたに贈ることができるのはわたし自身だけだ。

   ラーマーヤナ(抱擁したときラーマがハヌマーンに言った言葉)

 

 わたしたちはそれぞれ、有り余る人生の気晴らしに浸かることなく、日々、神と相互に触れ合うことによって、愛を認識し、与え、受け取る潜在能力を持った、神の愛のユニークな器となる。この真実こそが、バクティの教えの核となっている。ずっと昔、真実と美の体験――それはわたしのなかで培われた偏見からは想像もできなかった――に飢えて、世界をさまよっていた頃、見た目はそれらしくないが、忘れがたい師からこの教えを学んだ。

 冬がようやく終わりに近づいていた1971年のひどく寒い日、広大なヒマラヤの大自然に向かって北方へ、森の小道をひとりで歩いていた。考えに耽っていたため、わたしは深い森からはみ出て、開けたところに出た。わたしは立ちすくんだ。目の前の背筋が凍る光景に耐え切れなかったのだ。家のない、飢えた群衆。裸の人もいれば、汚れたボロ布をまとっただけの人もいた。彼らの顔は崩れ、鼻は溶け、手足はつぶれたり曲がったりし、手や足の指はなく、血がにじんでいた。わたしはハンセン病のコロニーに迷い込んでしまったのだ。そういう場所について聞いたことはあったけれど、ここまでひどい状態であることを知らなかったし、気持ちの準備ができていなかった。ハンセン病患者の集団のなかに足を踏み入れると、わたしは彼らにみっちりと覆われるように囲まれた。「施しを!」彼らは叫んだ。そして絶望的なほど押し合いへし合いしながらわたしから取れるもの何でも取ろうとした。長く感じたニ十分ののち、彼らはわたしから与えられるものを何も持っていないことに気づき、散り散りになった。

 地面の上にボロをまとった年老いた女が横たわっていた。体が腐敗し、かつて鼻があったところには穴があいていた。目があった。彼女はほほえんでいたが、思うにそれは悲しい示し方だった。わたしが受けたショックを彼女がり愛したことがわかった。その瞬間、驚いたことに、彼女はわたしにやさしい、思いやりのある母親の愛をもたらしてくれたのだ。彼女の様子からわたしは確信をもつことができた。彼女はわたしから何かを欲しいとは思っていなかった。むしろ彼女は憐れんでいたのである。この人々と出会うことによってどれだけわたしの気持ちが乱れたかわかったのである。彼女は指のない両手を合わせ、尊敬のジェスチャーを示し、わたしを祝福するため一本の手を伸ばした。わたしは心を動かされ、彼女に近づき、膝をついた。彼女は手のひらをわたしの頭の上に置き、ささやいた。「わが子よ、神のご加護がありますように。あなたに神のご加護を」

 わたしは見上げた。彼女の表情は喜びに満ちていた。彼女は美しかった! 神がわたしを彼女のもとにつかわしたのだと感じた。それで彼女は裕福な、あるいは貧しい、健康な、あるいは病気の、母親がするべきことをしたのである。つまり子供を祝福することを。それから笑顔を交換し、わたしは歩いて去った。

 コロニーから遠くないガンジス川のほとりに、休むのにちょうどいい場所をわたしは発見した。わたしは川の激しい流れをじっと見つめた。逆巻く波の下に何かがあった。しかし川の深み以外に何も見えなかった。ハンセン病の女性はかわいそうなことに恐ろしい病気に感染していた。しかし川のように彼女は目には見えない深みを持っていた。彼女は愛し、愛されることだけを望んだ美しい魂(こころ)だった。

 人を外見で判断しがちだったわたしを圧倒したのは、女性であり、川だった。表面の下を見るなら、表面がいかに不完全に見えようとも、あらゆる魂(こころ)が純粋であることを発見するかもしれない。わたしたちそれぞれが体験する肉体的、精神的苦悩には、遠くかけ離れた、覚えてさえもいない原因があるかもしれない。しかし彼らはさまざまなやり方でやり通すだろう。それでもなお魂(こころ)はつねに純粋なのだ。カルマというすばらしい法よりもさらに深いところを流れているのは、神の愛という潮流である。ハンセン病の女性は自分が悩まされている苦悩について、神を責めるようなことはなかったように見えた。むしろ神の祝福を他者に与えることで、深い喜びと満たされた気持ちを表しているようだった。

 三十六年後、わたしはハンセン病コロニーを再訪した。公的基金によってコロニーはより便利な場所に移転し、居住用の建物が建てられ、食事プログラムが作られていた。コロニーの住人は若い頃のわたしがでくわした頃よりもはるかにいい環境下で暮らしていた。わたしに祝福を与えたあの女性に会えるとは思えなかったし、もちろん、会うことはなかった。しかし彼女のことはよく覚えていた。公的基金や居住地、食事プログラム以前に、世界の誰かが彼女の世話をする以前に、この女性はわたしを気づかってくれたのである。彼女の祝福はわたしの心(ハート)を射貫いた。わたしたちの間にある違い――国籍、宗教、性、民族、見かけ、健康、病気――を超えたところに、みなが分かち合える普遍的な本質があった。つまり魂(こころ)がもとから持つ、愛する力なのである。

 

バクティの定義 

愛とはあなたが欲するものを手に入れるかどうかということではない。つねに満足していたいという考え、そしてつねに充実していたいという考えが、愛を不可能にする。愛するためには、あなたはゆりかごから降りなければならない。ゆりかごでは、特別な何かを手に入れるために、気にすることなく、すべてを手に入れることができるし、成長して人に与えるほど成熟することができる。

    トマス・マートン『愛と生』 

 

 バクティは「至高なる存在への無条件の愛、そして他者への深い思いやり」という意味である。この愛はあまりに完璧すぎて、神だけでなく彼と結びつく誰に対しても、何事に対しても愛を勇気づける。言い換えるなら、バクティはダイナミックで、実践的なやり方で表現される。すなわち、やさしい神によって、他者への思いやりを示しながら、環境に気を使いながら、神の聖なるエネルギーを知りながら、すべての生命の幸福にとっては欠かせないものとして、表現されるのである。バクティはまた、内面において、この愛の覚醒を献上するヨーガの道の名前である。それはいかなる特定の宗教や信条だけの実践ではない。それはすべての宗教や信条の精髄である。それは魂(こころ)の自然の状態なのである。

 

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