愛の道 

人生でもっとも美しいものは見ることも、触ることもできません。しかし心で感じることができるのです。

      ヘレン・ケラー 

 

 愛への間違った渇望は、多くの人々にとって深刻な問題だ。愛を求めて、わたしたちは一時的な悦楽の幻を愛のオアシスと受け取ってしまう。わたしたちの多くは愛のように感じる感情と出会った経験を持っている。しかし時とともにときめきは減り、愛の感情も消えていき、わたしたちは満足できないまま、ひとりきりで、ときには悲しみ打ちひしがれてしまう。あまりにもしばしばほかの楽しみに没頭して、あるいは心(ハート)の静かな叫びを深く埋めて、痛みを取り去ろうとする。食べ物だけが胃袋の飢えを満足させることができるように、愛だけが、それを与えるにしても、受け取るにしても、心(ハート)の飢えを満たすことができる。

 バクティは、愛を与えることと受け取ることこそ人生の目的であると、わたしたちに教えてくれる。だからこそすべての生きものは飽くことなくそれを求めるのである。しかし愛の渇望と愛されたいという気持ちはどこからやってくるのか。バクティの伝統は、わたしたちが永遠に生まれつき愛する能力を持ったスピリチュアルな存在であることであると説明する。それは個人的に至高の存在と関係を持ったところに起源を発している。純粋にスピリチュアルな存在の中で、神はわたしたちの愛情の対象であり、わたしたちは神の愛情の対象である。しかし道に沿ったどこかで、物質的な存在のドラマの役に起用される。肉体とともに現れた要求や欲望、期待によって重荷になり、魂の愛する傾向は変容して自分勝手になり、自然のコースから逸脱してしまう。

 ヒマラヤの麝香鹿を思い浮かべてほしい。雄の鹿は分泌腺を持って生まれる。おとなになったとき、世界でもっとも貴重なものを放出する。ムスクである。鹿は自分の体が作り出すこの惹きつける香りを発しながら、この泉を探しつつ森の中をさまよう。この実りのない探求において、鹿は探しているものが自分の内部にあることをけっして理解しない。わたしたちはまさにこの鹿のようではないか。

 

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