愛はいとしいものを圧倒する 

 バクティ・ヨーガは神への愛情をこめて身を尽くすときに絶頂を迎える。個人的な楽しみのためとか、ある種のヨーガの教派が約束する奇跡的なパワーとか、苦悩からの解放とか、そういったことが動機になるのではない。真のバクティの動機は、至高なるいとしきものを喜ばせたいという願いである。ほかのすべても現実的な、あるいは精神的な成就の欲求は、神の純粋なる愛に含まれるのだ。それは人が百万ドル持っているとき、百ドル、千ドルで満足するようなもの。

 ヴェーダには、この愛を理解する登場人物のさまざまな生き方の例にあふれている。たとえば、ハヌマーンはジャンプして海原を越え、片手で悪の暴君の帝国の都を征服したパワフルな戦士である。すべてはラーマとして現れるひとりの神のつとめなのである。主のラーマ、すなわち存在するすべてのものの所有者は、恩義を感じ、告白する。「わたしはあなたの愛に報いることができない。わたしが与えることができるのは、わたし自身だけだ」。これらの言葉をもって彼はハヌマーンを抱いた。

 同様に、ヴリンダヴァンの牛飼いの少女たち(ゴーピ)はクリシュナを愛する素朴な少女たちである。彼女らはクリシュナに喜びを与えるために深い、揺るぎない瞑想をしながら、料理を作り、家族の世話をし、花飾りを編み、牛の乳を搾り、歌い、踊った。ラーマのように、主クリシュナは、献身的な愛にたいして報いることができないと告白する。彼は言った。「わたしはあなたがたに、愛そのものに満足していただくようお願いする。というのもそれに比するものがなにもないからだ」

 ハヌマーンはラーマの軍隊のヒーローであり、ゴーピは村の少女たちだが、彼らはみな愛する主を思い、彼の栄光を歌い、彼の喜びのために個人的にできることをなんでも捧げている。

 真に愛する者によって圧倒されることを、あなたは楽しんでいるかもしれない。バクティの書には、至高なる者は純粋な心の信者の愛によって圧倒されるのを楽しんでいると書かれている。この愛はわたしたちすべての内側にある。バクティは、この愛の強さによって世界といかにやりとりしていくか教えてくれる。聖なる者への愛が目覚めはじめるとき、それはわたしたちの人生のあらゆる面、すなわち家族、社会の中で果たす役割、ルーティーン、責任、関係を照らし出す。

 

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