実践4 聖なる文学を聞く  

人々は娯楽が大好きだ。どれだけのエネルギーと時間を、映画やテレビを見るのに、音楽を聴くのに、本を読むのに、雑談をするのに費やすことだろうか。もしそれだけの時間とエネルギーを、人を覚醒させる物語と教えを聞くのに捧げたら、どうだったであろうか。バクティの聖典はこうした聴聞のタイプをシュラヴァナと呼ぶ。

 シュラヴァナの実践とは、シンプルに、かけがえのない時間を、聖典の読書や神の超越性を論じ、信仰心を高める講演に出席したり、録音を聞いたりすることに当てることである。今のテクノロジーがあれば、いつどこでも超越的な音のバイブレーションと簡単に接することができる。シュラヴァナはわたしたちの優先事項にふたたび焦点を絞り、心を浄化し、聖なる愛を惹きつける。そのような超越的な音が至高なる者への無条件の愛によって活気づけられ、純粋な根源から受け取ると、それはわたしたちの内部で信仰の種子を育て、それはわたしたちの生に変容するのだ。根源がより純粋でより覚醒していれば、効果はより強力である。

 子供時代からわたしは意味ある物語を聞くのが好きだった。どれも聖なる愛の哲学を持った魅力的な物語を織り込んだ古代ヴェーダ文献の「シュリーマド・バーガヴァタム」としても知られる「バーガヴァタ・プラーナ」を発見したとき、夢見ていたことのすべてを見つけたのだった。

 バーガヴァタ・プラーナがどのように聞かれていたかということ自体がいわば覚醒の物語だった。ずっと昔、賢者のグループがナイミシャという森に集まった。そこで彼らは未来を見て、人々が自身の心から目をそらし、他者が必要としているものをないがしろにし、彼らを支えた環境を破壊している世界の結果について深く考えた。彼らは内面がうまくいかないとき憎悪、戦争(神の名にかけて戦った)、汚染、困難、不安が生まれることを知っていた。そして彼らはいつくしみの心に動かされた。

 ある朝、太陽が最初の光線を菩提樹が枝を四方に伸ばしている静かな森に射したとき、賢者たちはゴーマティ川の岸辺の近くに坐っていた。人間がひとつの家族であり、年長者として聖なる人々の責任は、結束し、模範と方向性を示して社会に貢献することであると彼らは認識していた。真の変化をもたらしたいと考え、彼らはそこに何年も残り、瞑想と儀礼と祈りに明け暮れた。賢明で経験もしていたけれども、彼らはもっとも益があることは何かについて混乱してよくわかっていなかった。

 そこで彼らは長老のスータ・ゴースワーミーのもとへ近づいた。賢者たちは彼がグルの祝福を受けた穏健な人物であることを知っていた。邪悪なこととは無縁で、聖典をよく学んだ賢者だった。すべての人類のために賢者たちは言った。「おお、スータよ。われわれはむつかしい時代に生きておる。人は喧嘩ばかりして、心は乱れてばかりだ。精神的なことをやろうとして、結局仲間割れして、痛みを覚えることになる。精神的実践法だの哲学、聖典だの、さまざまな種類がある。だがダルマの本質とは何なのか。我々は究極的にどんないいものを人類にもたらすことができるのか」

 スータ・ゴースワーミーは、現在バーガヴァタ・プラーナに収められている詩篇のシリーズという形で回答した。これはスピリチュアルな道を歩みたいという人々のために永遠に、案内する光でありつづけている。ひとつの詩篇はとくにスータの教えの核心を成している。

 

すべての人類のための至高のダルマは、それによって人々が超越的な神に愛を込めた奉仕のおこない(バクティ)を得ることができる。そのような奉仕のおこないは自我を完全に満足させるために動機はなくなり、連続しなければならない。

  バーガヴァタ・プラーナ 1.2.6

 

 この一句をはじめて聖者の口から発せられるのを聞いたとき、いかにバクティの心が含まれているか、わたしは深い理解を得ることができた。スータはすべてのスピリチュアルな指令をひとつの原理に、すなわち愛に結びつけた。そして人類の究極的な善性のためのスピリチュアルな指令の神髄として、至高の者への無条件の、妨げられない愛の奉仕をすすめた。わたしたちすべての内側の愛は不活発である。早い時期から、わたしはダルマを定義できる実体として定義していた。ともかく、わたしたちのダルマは愛する奉仕である。シュラヴァナを通じてわたしたちはそれを目覚めさせることができる。

 スータはさらにつづける。

 

定期的に神について聞き、大いなる魂に奉仕することによって、心に抱える問題のすねては除去され、純粋なバクティ(愛のこもった奉仕)が確立される。

  バーガヴァタ・プラーナ 1.2.18

 


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