実践5 どれだけ神のことを知っていようとも、信念と尊敬の念を持ち、神を崇拝する 

 辞書はworshipという言葉の意味をふたつに定義する。「(a)神に対する尊敬や称賛の感情や表現。(b)尊敬のきちんとした表現を成す行為や儀」。バクティに関連して最初の定義はたくさんの時間を費やして論じてきたので、ここでは二番目の定義を論じたい。

 祈祷の儀式はわたしたちの内側の、あるいはまわりの神の存在に目を向けさせるよう、そしてその精神をしみこませるよう作られている。適切に理解され、執り行われたとき、そのような崇拝は心(マインド)の中に大きくポジティブな印象を残すことになる。念入りに作られた儀礼は段階を通して実践者の心と体を魅了する。それは同時に審美的に喜ばせ、霊的に浄化する。

 バクティの実践においてそのような崇拝行為はプジャと呼ばれる。プジャは一般的に、崇拝の対象に対し、特別な順序で、特別な祈りをあげながら、物質的な何かを捧げることである。プジャは多くの人が想像する儀礼とは異なっている。それは内面が関わることのない決まりきった礼拝活動なのである。すべての崇拝は霊的な体験を生み出す力を持っている。心(ハート)が関わらない決まりきった儀礼は偏狭な考え方をもたらすだけである。そして思慮深い人々はそれを避けてしまうのだ。

 真に信心深い儀礼は迷信や根拠のない感情をもとにすることはない。プジャは超越的な領域とつながる手段である。それは聖なるものを愛し、仕えて、心を集中させるための手段である。儀礼はわたしたちの思考を直接助ける手段として、言葉を与える。そして一連の行動を起こすことで、体を瞑想に連動させる。もっとも覚醒したかたちで、プジャは奉仕という概念を奉仕という行動に変えるのだ。プジャをおこなう間にわたしたちが生み出す霊的なエネルギーは時空を超え、喜びと思いやりを世界に放つのである。

 プジャは瞑想の一形式である。至高者に奉仕したり提携したりするなかで、身体、心、言葉を理解する方法である。それは心(マインド)が魂の真の性質を映し出すように形作る。プジャをおこなう人は自身が感謝の念と愛と人生を完全に霊的な表現に変容したい強い欲望を持っていることに気づくだろう。

 あなたは信仰心にあふれる儀礼を、愛する至高者へメッセージを送るために使う封筒のように考えることもできる。封筒はその中身だけが価値の違いをつくる。それではどのようなメッセージをあなたは儀礼という封筒の中に入れるだろうか。至高なる存在をなだめるためにプジャを利用するのだろうか。欲するものを得られるのだろうか。無私無欲の愛する何かを捧げるのだろうか。この質問の答えは、あなたの儀礼=封筒が世俗的であろうと霊的であろうと、からっぽであろうと価値あるものであろうと、関係なく、手厳しい。イエスは「背後に霊や力があることを理解せずに、法(の条文)に従って」空虚な儀礼がおこなわれていることに対し、警告を発している。

 わたしたちの感覚や心は絶え間なく、唯物論そのものの、つまり皮相的な物事からの爆撃を受けている。その上にはさらに現代生活の心配事やプレッシャーがのしかかっている。バクティのヨーギたちにとって、美点や信仰にあふれたプジャに参加したり、とりおこなったりする体験は――それが神殿の儀式であろうと、結婚のような聖化した行事の儀礼であろうと、あるいはシンプルに家庭内の瞑想的儀式であろうと――問題をわきに置いて、霊的な本質とふたたび結びつくことができるのである。

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