カルマとバクティ・ヨーガ 

 バクティ・ヨーガを実践することで、わたしたちはカルマを超越し、明白な反作用と種の中の存在から解放される。バクティは自然や根源と調和しながら、自分自身に誠実に生きることを基礎としている。そして恩寵の流れにわたしたちをふたたび結びつけ、カルマの作用・反作用の果てしない循環をしばらくつづかせたあと、終焉にいたらしめる。信仰心あふれる奉仕のなかで与えられた言葉と行為はもはやカルマを生むことはない。そのかわり純粋な愛の種を育むのである。

 バクティを通してわたしたちは徐々にまわりの神の愛を感じとるようになり、人生の置かれた状況を内なる旅の進歩の機会と見て受け入れる。この展望を持って、明らかな呪いは生きている祝福へと変化する。この認識に至れば、それはゆるやかな前進である。初期の段階で、わたしたちは恩寵の一服を受け取る。それは心を開き、愛あふれる献身に目覚めるのに十分な量である。熱心に信仰活動を始めると、魂の内なる性質はすべてのまちがった自己認識を通じて燃えることだろう。そして炎のごとく、すべての習慣や、進歩を遅らせるメンタリティーを燃やし尽くすことだろう。執着している度合いによって、わたしたちは痛みを感じるかもしれない。しかしわたしたちの信仰心はより明るく燃え、複雑な、入り組んだ状態、すなわちいくつもの生を経て発展させているカルマの殻は、最後には完全に燃えてなくなり、魂はそれ以降輝きを増すことになる。

魂が輝けば輝くほど、慈しみの目を通してわたしたちは見るようになる。感謝の心を持って、生が与えてくれるものを受け取り、愛される主に仕えるためにそれを使う。もし生によって何かが持ち去られるなら、わたしたちは愛される主の手を見るだろう。バクティの聖人バクティヴィノーデーはつぎのように述べている。「愛される主への奉仕のなかで遭遇するすべての困難から大いなる幸せが生まれるだろう。というのも献身的な奉仕の中では、喜びと悲しみはともに大いなる宝だからである。両者ともみじめな無知を破壊するだろう」。いい人に悪いことが起きるという考えは、表面上のみ真実である。その下にわたしたちは、神の恩寵の抱くことを待っている情け深い腕を見つける。それはわたしたちを包み込み、故郷へと送り届けてくれるのだ。

⇒ つぎ