死と解放 

 友人たちの旅立ちはわたしに悲痛の心と感謝の念をもたらした。悲痛の心というのは身体的な継続する喜びやインスピレーションを置いて去っていったことから生まれた感情である。感謝の念というのは、愛を注いだ友情や彼らの命がわたしに与えた信仰の贈り物から生まれたものである。死は、多くの人が心の隠れた片隅から押しやりたいと思うテーマである。しかし聖なるテクストや聖人の教師たちは、自分たちが死すべき存在であることを覚えておくのが賢明であると思い起こさせる。そのためには、まわりの世界を見回すだけでいい。

 ある日の午後、ガンジス川の砂の多いほとりで坐っていたとき、雲のない青空をじっと見つめた。一羽の鷹が気流に乗って、翼を広げて飛びあがっていた。日差しを浴びて赤茶色の羽根を輝かせながら、鷹は旋回しながらゆっくりと下りてきて、わたしのところからほんの数メートルのところでとまっていた。その黄色い目が川面を入念に調べているのがわかった。

 突然鷹は頭からドブンとガンジス川に突っ込んだ。水中を猛烈な勢いで泳ぎまくって、30センチほどのぴちぴちした魚を鉤爪で押えたまま水上に現れた。魚は絶望的にもがいていたが、鷹は近くの森の中に消え、

 その魚は川の中での生活しか知らなかった。その日も、ほかの日と同様の生活を送っていた。一瞬のうちにそれは日常からもぎとられて、死と出会った。

 わたしたちもその瞬間まで何にも気づかないでいて、突然危機がやってくるか、死が奪い去っていく。毎日わたしたちは失敗について聞く。ときには死について聞く。まわりに死は潜んでいる。自分が死すべき運命であることを知り、死が自分にやってくることを知っている人はきわめてまれである。

 この精神的見くびりは、わたしたちが防がなければならないものである。べつに偏執狂になれとか、悲観的になれ、と言っているのではない。むしろ現実主義者になって、ポジティブなやり方でいくべきなのだ。気づきはわたしたちの幸福にとって重要である。もし魚が深いところで泳ぐなら、危機を運ぶ鷹は魚を捉えることができない。これは精神生活の暗喩である。あきらかに身体の最期の死から、彼や彼女が深刻な困難に面と向かい合わなければならない可能性から、誰も隠れることはできない。しかしもし魚のようにより深くもぐって聖なるものとつながるなら、わたしたちは内なる現実が満足のいく、支えるものであることがわかる。それで避けられない肉体の終わりを含む人生のすべてのできごとを、平和裏に、またわたしたちが永遠で、滅ばない魂であることを認識しながら、受け入れることができる。これは恐怖を超えた場所である。

 バクティの聖典は魂の永遠性を祝うのだけれども、魂が身体を離れる瞬間、魂に何が起こるかについての細かい描写を含んでいる。そのような教えは実践者にすべての瞬間が尊いものであり、精神的進化、あるいは魂の命は重大なものとして受け取られるべきと考えられる。それは持続する唯一の生である。生は自己充足(われわれは結局喜びを求める生きものだ)を意味する。しかし表面的な、一時的な体験に貴重な時間を費やすとき、わたしたちのすぐ上を飛ぶ運命の鷹のことを忘れるのは簡単だ。それゆえバクティの聖者とスピリチュアルな道を歩むその他船員は、それが最後であるかのように毎日クオリティの高い生活を送るのだ。

 

⇒ つぎ