小さいことを考えるな 

 この世界の形は有限なので、無限のものは形がないにちがいないと、信じられる傾向がある。一部の人が至高者の概念を受け入れようとしないのは、こういった傾向のせいかもしれない。聖なる者の抽象的な、形のない概念は、よりスピリチュアルなものに思える。なぜならわたしたちは物質世界の無限の形に関して体験がないからである。無限のスピリチュアルな真実を理解するために、形の概念を排除するのは有効である。しかしそれが唯一の方法ではない。

 ここにいい例がある。部屋の壁には形があり、それゆえ空間を占拠するという意味で、部屋は有限である。もし、たとえば解体用鉄球で形(壁)を壊すとき、形のなくなった残骸は有限なのか、無限なのか。あきらかにそれらは有限である。残骸は量的に、もともとの壁と同じなのである。形を壊すだけでは、有限のものを無限にすることはできないのである。有限を作り出すのは形でなく、物質である。形があろうとなかろうと、物質的物体であれば、それはつねに有限である。一方、至高者は無限である。しかしそれは至高者の形がないからではなく、物質的でないからである。至高者は、有形と無形の二元性を含むすべての二元性を超越している。

 形と人格によって至高者が有限になると人は主張するかもしれないけれど、等しく、形と人格を持たないことによって有限になるとも主張できるのだ。つまり、形と人格がなければ、至高者は彼自身の創造物以下なのである。この論議の解決法は、至高者、すなわち霊的存在であるものが、無限の人格、形、潜在力であることを理解することである。簡単な例を挙げよう。われわれの視界は、目によって有限のものとなる。この物質的な視覚装置が網羅するものしか見ることができない。その範囲は、じつはそんなに大きくない。たとえば鷲の目は何マイルも先まで見ることができる。昆虫は、複数の目によって人間の目では見えない何通りもの仕方で見ることができる。一部の人は、至高者が無限なので、人間の目や複眼を持っていないと考える。それらは至高者を有限にしてしまうのである。かわりに至高者は目を持たないのである。しかしながら、バクティ哲学は、至高者の目はわれわれの目と対照的に、いつも、どこでも、すべてを見るパワーを持っていると説明するのだ。至高者の目はわたしたちがともに働く、物質的な、肉体的な道具ではない。それらは物理的な法則によらない霊的な感覚である。

 同様に、人々は人格が無限であることに気づく。わたしたちが知っている誰もが、両親であれ、友人であれ、世界のリーダーたちであれ、個人的弱みや欠点を持っている。人格を持っているということは、神に対して無限ではないということなのか。神を擬人化するのは、つまり超人や未知の何かに人間の性質や形が属すると考えることは、神人同形論ではないのか。

 古代のバクティ経典や教師は、実際は逆であると教えてくれる。この世界の有情の形は至高者の個性を反映していて、その逆ではないのだ。聖書は言う、神は自分のかたちに人を創造された、と。『バガヴァッド・ギーター』は、さかさまのバニヤン樹、すなわち湖に投影された木のたとえを用いている。物質世界は水面に映った木の影と比較することができる。二次元的で、本物の果実はなく、もとの木の貧弱な代替にすぎない。おなじように、この一時的な世界の形は、永遠の領域に存在するもとの形から派生したものにすぎない。この世界の人々を束ねる愛は、いとしい至高者に対して魂を束ねるもともとの愛の影である。

 何年も教えていて、しばしば表面下で人格としての神の概念に対して異存があることに気がついた。世俗的な体験のなかで、人とやりとりをするのが苦しいことがあった。他者との関係は、裏切りやフラストレーション、後悔、嘆きなどで傷ついた。そしてそれによって人の永遠性を熱狂的に求めるようになるわけではなかった。むしろ世俗的な出会いによって神のもっとも高次な表現が非人格的であると信じるようになった。

 変わりゆく世界にあって、自分の霊的性質を忘れやすいわたしたちは、悲痛の苦しみに対してとても傷つきやすい。悲痛の思いというのは、他と比べようがない。なぜならそれは内に秘めた目的、つまり愛することと愛されることを阻害するのだから。

 若い頃わたしはブルースをよく聴いていた。聴くたびに、ミュージシャンが表現する失われた愛の嘆きに深いつながりを感じたものだ。それぞれの音調、それぞれの言葉が救済への嘆願のように思えた。それぞれの種類の悲痛な思いに救済策があるはずだが、ボビー“ブルー”バンドが歌うように「あなたが頭痛に見舞われるとき、あなたができることは何もない」のだ。その渇望の源は、永遠の神とふたたび結びつきたいという魂の叫びだろう。

 人間関係が裏切りや無視、失望などによって傷つかないなら、それはかならず死によって終わるだろう。永遠の愛は奪い去られるいかなるものもないのではないか。そしてすべての愛は喪失によって特徴づけられるのではないか。なぜ人々が精神的個性を避けることを選ぶのか、理解できる。

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