エルサレムからカシミールへ 

第3章 神秘的な夢 

 

 その土曜日の夜はマリカの人生においてもっとも神秘的なことが起きた夜だった。それはミハルの遅い電話から始まった。電話はコシツェからだった。45年ぶりの同窓会がうまくいったという。彼はとても高揚していてエルサレムのみやげ物のことは忘れているように思われた。「おれたちはカヨやヨソといっしょに夜間列車で戻ることにするよ。朝七時にはブラティスラヴァに着いているよ」

「列車の中で食べないで。ロリンコワが新鮮な卵を持ってくるので、朝ごはんにおいしいスクランブルエッグが食べられるわよ」彼女は元気そうに見えるよう努力したが、成功しなかった。胸のしこりが彼女のユーモア・センスや元気さを弱めていたのだ。癌が再発したことがわかったので、陰鬱な思考をすべて排除しようとした。ミハルを悲しませたくなかった。ときおり彼の堪忍袋の緒が切れたときなど、彼女の苦しみを彼に思い出させているように感じられた。しかし三十年以上にわたって彼女と辛苦を共にしてきた男なのだ。「すばらしいね。スクランブルエッグを楽しみにしてるよ。きみと会うのが楽しみだ。愛してるよ」家から離れたとき、彼はかならず付け加えるのを忘れなかった。「おやすみ。もう真夜中だからね。じゃあ」

 自分ひとりになるのはよかった。立ち止まり、考え、過去の数日、数か月、数年について思い返すいい機会になったからである。その夜、心にあまりに多くのことが思い浮かんでしまった。彼女は眠れなくなってしまったので、ショパンのピアノ協奏曲を聞くことにした。いつもは完璧な効果があるのだが、今度は何の助けにもならなかった。しこり、しこり、しこり……。彼女は雨の音付きのCDをかけた。湖の水面に落ちるパラパラという雨音が彼女を奇妙なムードにいざなった。彼女はリビングルームのバーへ行き、ファーネット(ハーブやスパイスから作られるスピリット)を自分のためについだ。そしてミハルがかつてノヴァ・バナのアンティークショップで買ったアンティークのアームチェアに深く坐った。彼らはこのアームチェアを繕って、傑作といえるような家具に変身していた。彼女はすっかりここに落ち着くことができた。窓を少しだけ開け、音量を下げた。というのも雨のささやきが少しばかり大きすぎると感じたからだ。最後には彼女はプレイヤーを完全に切ったのだが、雨音は弱くならなかった。ほんのしばらくのち、なかば睡眠に落ちかけたとき、音が外からやってくることに気がついた。暴力的といっていいほどの雨音が鳴り響き始めた。おかしいわ、少し前、空には雲ひとつなかったのに。彼女は眠そうな眼でリビングルームを見回した。一部はゲストのための空間であり、ほかの一部はミハルの書斎だった。このミハルの書斎に今までこのように坐ったことがなかったことに彼女は気がついた。大きな書棚の棚にはチベットのタルチョ(祈祷旗)、ソクラテスの胸像、ゲッセマネの庭から取れた乾燥オリーブの枝、トルコのどこかで買った古いピューター・オイルの容器、中国人のクーリー(苦力)帽、その他彼に世界中の旅行を思い起こさせるみやげ物が並んでいた。彼は旅行すること、新しい人々に会うこと。文化、宮殿、ほとんどすべての小屋が好きだった。小屋には真の生活が見いだされるのだ。彼女は彼といっしょに旅行しなかったことを後悔した。しかし外国を見たいという欲望よりも飛行機恐怖症のほうが強かった。それにミハルが旅から戻ってきてから彼の物語を聞き、すばらしい写真を見ることで満足できた。彼女は棚の上に最近自分が投げ捨てた平たい石とともに、『世界の歴史』五巻を発見した。それがとても魅力的なものであるかのように、彼女はじっとそれを見つめた。

「これは同町のシンボルだ。われわれの原初の故郷だ」というミハルの興奮した言葉が彼女の頭の中で反響した。彼女は石を手に持ってみた。それは小さいけれど、驚くほど重かった。それは等辺十字架で、横のラインは斜めになっていた。刻まれている文字はヘブライ語だった。内容は横に立っている七つの枝のついた燭台、メノラーに刻まれているものと同一だった。ミハルはそれをベツレヘムから持ってきたのだった。ラテン文字で刻まれた彼女がわかる唯一の言葉は、底の右隅の「アーメン」だった。石の裏側にはユダヤの六芒星が刻まれ、仏教の有名なシンボル、イン(陰)とヤン(陽)が書かれていた。ミハルは何度もその意味について説明したことがあった。それは二元性が幻影であることを表していた。二元性は人間に苦しみをもたらすものだった。仏教のゴールは究極的に二元性を排除し、世界に調和を取り戻すことだった。黒地に中央の白点と反対の白地に中央の黒点は、二元性の側面を表し、反対の側面の種子を意味する。正しい側も悪の種子を含み、悪の側も白い種子を含む。善と悪は調和を生み出すのだ。シンボルの隣には何かが文字で書かれている。その文字は彼女にインドの文字を思い起こさせた。連なる文字の下にかろうじて浮かんできたのは、以前にも見たことがある蓮華座に坐る長髪の男の輪郭だった。その右手は挙げられていた。石はとても古いものだった。坐る男の輪郭は消えかかっていた。興味深いことだが、ミハルに何も言われることなく彼女が石を持ったのははじめてだった。彼女は手の中で石をもてあそびながら夫について考えていた。神秘主義とミステリーはつねに彼の趣味であり、中国、ネパール、インドへ遠征して以来、スピリチュアルなことに興味を持ち始めた。底の右隅には、つまり「アーメン」という文字が書かれた面の裏側には、もうひとつのシンボルがあった。ミハルの説明のおかげで彼女も認識できたのである。それはオーム、あるいはアウム、すなわち宇宙の無限の調和を表す仏教でもっとも聖なる言葉だった。彼女はオームと言っているのが感じられなくなるまで、つまりオーメンやアーメンと言っているような気になるまで、それを何度も口にした。この二つの言葉の発音が非常に近いことに彼女ははじめて気がついた。まるで同じルーツを持っているかのようだった。彼女は元の場所に挿入するかのように、石を棚の上に戻した。そして底に何か文字があることに気がついた。それは英語だった。彼女は明かりをつけ、読んでみた。

 

兄弟よ、私は覚えている、あなたの太陽が昇ると、私の太陽が沈むことを。あなたが生まれるとき、私が死ぬことを。J。そしてもうひとつの文章がすぐ右にある。兄弟よ、私は覚えている、あなたの太陽が沈むとき、私の太陽が昇ることを。あなたが死ぬとき、私が生まれることを。B。

文章の横に文字があった。すなわちUNUM(ウヌム)。

 

 雨は強くなりつつあった。しかし雨以上に彼女を不安にさせたのはこのミステリアスな石だった。彼女は胸のしこりにわずかな痛みを感じた。そこで自分のためにもう一杯ファーネットをついだ。いままでの長い間よりもいまのほうがずっと気分はよかった。ミハルと過ごした瞬間、瞬間が彼女の頭の中を駆け抜けた。疑いなくもっとも美しい瞬間は半年前のことである。ミハルが一か月のチベット遠征から戻ってきたとき、彼女は夫に留守中に断食を実践したこと、そしてミハルは知りさえしなかったが、胸の癌が消えていたことを話した。数日後、彼女が夫に診断書と血液分析結果を見せたときの彼の表情を忘れることができない。癌の痕跡すらなかった。同様に、赤い薔薇のブーケを彼女に贈り、プロポーズした夜を忘れることができない。しかしながら小さなしこりが彼女の胸に最初に現れたときの不安な感じ、落ち着かない気持ちが最近も心に入ってきたのである。祈りのおかげでパワーのヒーリング信仰と四十日間断食を実行し、手術を回避し、癌もどこかに行ってしまったのである。医師がはなはだしく驚いたのは言うまでもない。おなじような試練を経ている友人のルブカのアドバイスも効果的であることがわかった。しかしながらしばらくしてから彼女はミート・フリー・ダイエットはやめてしまった。そしてあちこちで喫煙を楽しんだのである。祈りや瞑想はしだいに散漫なものになっていった。右胸のしこりは自身への警告だった。

 ファーネットと雨の両方が影響を与え始めた。マリカの心は眠りに沈んでいった。半ば夢の中で彼女は突然革でできた奇妙な入れ物を見た。すぐになじみのあるものであることがわかった。母の宝石を入れた革の小箱である。彼女の母が八年前に死んだとき、彼女が小箱をデスクの引き出しの奥に入れ、そのまま忘れられていたのである。一年前掃除をしているとき、たまたま見つけることができた。はじめて自分の癌を見つけたのと同時期だった。ミハルは夢の旅であるチベット、ネパール行きの準備を進めていたところで、彼女は邪魔をしたくなかった。もし病気のことを話したら、夫は旅をキャンセルしただろう。友人のルブカは四十日の断食と家のまわりのプラスのエネルギーの流れを妨げるすべての古い、必要のないものを取り除くことをすすめた。これが母の宝石が入った小箱と貴重なロケットを発見するに至った経緯である。彼女は宝石を身につけるのが好きではなかったので、小箱を安全な場所に入れ、そのまま忘れてしまった。

 時計が二時を打ち、単調な雨のパラパラという音がマリカを不安なまどろみにいざなった。夢の中に好きだった子猫ヘナが出てきた。子供のとき彼女はいつもこの子猫と遊んでいたのだけれど、子猫をあやしているときにかぎって、まるで意図したかのように母親が家の中から彼女を呼んで、楽しいひとときを壊すのだった。子猫が庭に遊びに来る頻度は次第に減り、大きな黒いオス猫が現れると、どこかへ逃げ、そのあと二度と来なくなってしまった。

 夢の中にもオス猫が現れた。彼女は猫を追い払おうとしたが、猫はフーフーと威嚇してくるだけだった。それから彼女は格別に細長い小舟に乗っていて、岩を削って作ったとても長い果てしない運河を流れていくのだった。運河はとても細く、水はいっぱいに張っていた。彼女はもともと狭い空間が苦手だったので、強い恐怖を感じていた。運河は湖につながっていた。月は満月だった。月の光がおだやかな湖面で輝いていた。彼女は小舟を漕ごうとしたが、どれだけオールを水中に入れて押し出そうとしても、びくともしなかった。背後に女が立っていて、高笑いしていた。そして長い杖で彼女の背中を叩きながら前に進ませようとした。持てる力のすべてを漕ぐことに注ごうとしたが、小舟は動かなかった。しばらくして振り向くと、見知らぬ女は彼女の母親だった。彼女はほほえみながら、タバコを吸いまくった。彼女はマリカの横に坐りタバコひと箱を低いテーブルの上に置き、彼女の顔にタバコの煙を吹きかけた。

「癌はよくないわ。でもそれが報いなのでしょうけどね、シュロモ……」彼女は意地悪そうな表情で言った。口は閉ざし、唇の合間にタバコをくわえていたのだが。マリカは煙を顔から払おうとするかのように手を振った。煙が肺の中に入ってきたとき、それがタバコの煙でなく、奇妙なにおい、おそらく薔薇、エッセンシャル・オイル、ラヴェンダーの陶然とさせる香りであることがわかった。母親は笑いながら、煙を吐いて、マリカの漆黒の髪をときおり引っ張った。彼女の髪を引っ張るのは母親の癖だったが、マリカは侮辱されたような気がした。それを見た庭にいた子供は全員彼女をからかった。彼女は次第に息苦しくなってきた。彼女は咳き込んだ。死ぬんじゃないかとひどく恐ろしくなった。母親は冷たく笑い、言葉を繰り返した。「癌はよくないわ、でもそれは報いなの、シュロモ……。癌はよくないわ、でもそれは報いなの、シュロモ……」

 彼女は夢の母親の像を駆逐しようとした。母親とは彼女が癌で死んだその日までいい関係を築けなかった。彼女は手で追い払ったり足で蹴りを入れたりしたが、幻影はあざ笑うような表情を浮かべたまま右に動いていくだけだった。彼女は助けを呼びたかった。叫ぼうとした。しかし口は声を発することができなかった。まるで声を失ったかのようにぜいぜいと息をしながら唸るだけだった。アームチェアのなかで寝返りを打つと、額から汗が噴き出してきた。そのとき植木鉢の割れる音が聞こえた。彼女は無理に体をそりかえして見た。チトセランの植木鉢が床の上で粉々になっていた。母親の幻影と戦っているときに体が当たってしまったにちがいない。そして寄せ木作りの床に落ちて壊れたのだろう。彼女は大きなため息をついた。母親の幻影はすでに消えていた。夜は終わっていた。夢は去った。彼女は目を開けた。

 ミハルは彼女を見下ろすように立っていた。彼女の心臓は飛び出しそうなほど激しく打っていた。しかし夫が彼女の髪にキスをすると心は静まった。彼女は彼を強く抱きしめた。

「ああ、なんてこと。もう朝なのね」

「コシツェ発の急行列車が時間通りに着いたからね。ヤーノが車で送ってくれたんだ。ここで何してるんだい?」

「眠れなかったの。それで音楽聞いてたんだけど……。朝早くまで眠りに落ちることはなかったわ」

「悪い夢でも見たんだろ」彼はキッチンから箒を持ってきてゴミや植木鉢の破片などを掃き始めた。と、彼は突然居住まいを正して、何かをかいでいた。鼻を鳴らし、頭を振って言った。「これは何の香りだろう?」マリカはうなずいた。「においを感じるかい。エッセンシャル・オイルみたいな。いや、薔薇の何かって感じだ」

「わたしにはラヴェンダーのように思えるわ」マリカは強烈な芳香を吸い込んだ。

「もしかすると香水をつけたのかい」

「たぶん外からにおってくるのよ」

 ミハルは窓まで行ってみた。朝のフレッシュな空気が漂いながらリビングルームに入ってきた。彼は深呼吸をした。「外の空気は新鮮できれいだ」彼は疑いの目で彼女を見た。

「どうやったら香水をつけることができるというの? あなたに起こされたのよ。それにこんな香水はつけたことがないわ」

「それはたしかに妙だな。信じがたいほど匂いが強いのだが。いや、待てよ。この匂い、かいだことがあるな」

 マリカは大きく息を吸った。「わたし、母の夢を見たの。わたしの人生ではじめてね。母はずっとタバコを吸っていたわ。わたしの顔に煙を吹き付けていたわ。でもタバコの煙の匂いじゃなかった。これとおなじ匂いだった」

 突然ミハルは気がついた。どこでその香りをかいだかわかったとき、彼はぞっとした。

 

 

 

 


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