カルマと輪廻転生  

聖書のカルマ 

 

汝の為せる如く、汝も為せられるなり 

        ――オバデヤ書 

憐み深い者たちは幸いである。彼らは憐みを受けるであろう 

        ――マタイ福音書5章7 

 

 旧約聖書ははっきりと輪廻転生について述べているわけではないけれど、害を与える、あるいは邪悪な行為に対して厳しい罰を要求する、また善行に対して恩賞を与えるカルマの法の話であふれている。生々しい例としては、ダビデ王の話がある。ダビデはヒッタイトのウリヤ王の妻バテシバと恋に落ちた。彼女はダビデとの間に子どもをもうけた。ダビデはひそかにウリヤを戦争の最前線に送った。ウリヤが殺されるのを見込んでいたのだ。そうして彼はバテシバと結婚した。

 主は預言者ナタンをダビデのもとに送った。彼がウリヤ王を殺し、妻と結婚したので、罰せられることになるだろうとダビデに伝えた。神がダビデを許したので、ダビデの命を取ることはないとナタンは言った。しかし彼の罪の値はバテシバから生まれる子どもの命ほどの値だろうと言った。子どもはほかの人と変わりなかったので、ダビデはほかの誰かの命が取られることを学んだ。

 荒れ地をさまよったイスラエルびとの四十年の試練の間、カルマがブーメランのごとく戻ってくるさまは色彩豊かだった。モーセが法と十戒が書かれた二つの石板を持ってシナイ山を歩いて降りるとき、彼はイスラエルびとがエジプトの神々に似せて作った黄金の子牛像を崇拝していることに気がついた。三千人の人々が死の罰を受けた。

 別の場合でも、モーセの姉ミリアムは弟の権威に挑んでいる。結果として彼女はモーセのとりなしの祈りによって癒えるまで、らい病を患うことになる。イスラエルびとの集団がコラの先導のもと(モーセに対する)反乱を起こしたとき、彼らの下で大地が割れ、彼らと家族全員が飲み込まれてしまった。

 モーセ自身がこれ以上ないほどの手痛い経験をしていた。イスラエルびとは水のないところにキャンプを張り、リーダーの忍耐力を試した。「なぜわたしたちをエジプトから外へ連れ出そうとしているのか」と彼らは不平をもらした。「ここで喉が渇いて死にそうなのに」と。主はモーセに、手に竿を持たせ、岩から水を出すよう命じた。しかしモーセは頭に来ていたので、岩に話しかけるかわりに竿で二度叩いた。水はふんだんに出てきて人々の渇きを癒したが、モーセは神にさからってしまっていたのである。カルマの結果に過ぎなかったのか。悲劇と言えるのは、彼は約束の地に入ることを禁じられてしまったことである。

 旧約聖書の中で教えられているおなじ因果の法について、イエスがきっぱりと語っている。この山上の垂訓は、今後も含めて、カルマに関してあなたが知るもっとも重要なレッスンだろう。そのなかでイエスは個人的な責任説明の法の正確性について述べている。

「憐み深い人たちは幸いである。彼らは憐みを受けるであろう。(……)人を裁くな。自分が裁かれないためである。あなたがたが裁くその裁きで自分も裁かれ、あなたがたがはかるその秤で、自分にもはかり与えられるであろう。(……)だから何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのようにせよ。これが律法であり預言者である」(マタイによる福音書5―7章)

 ほかの場面でイエスは、われわれは自分が話すことに対しカルマ的に責任があると教えている。

「審判の日には、人は語るすべての無益な言葉に対して、申し開きをしなければならないだろう。自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪に問われるからである」(マタイによる福音書12章)

 イエスは捕まったときにカルマ的な報復の法について繰り返し述べている。彼の弟子のひとりが高官の僕(しもべ)の耳を切り落とした。イエスは弟子に剣をさやに納めるよう命じた。

「剣をとる者は、みな剣で滅びるだろう」(マタイによる福音書26章)

 使徒パウロはまたつぎのように述べてカルマの法を説明する。

「人はそれぞれ、自分自身の重荷を背負う。(……)思い違いをしてはいけない。神は侮られるようなかたではない。人は自分が蒔いたものを刈り取ることになる。(……)すべての者は、働きに応じて報酬を得るだろう」(ガラテヤ人への手紙6章、コリント人への第一の手紙3章)

 


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