カルマパ列伝 カルマ・ティンレー   宮本神酒男編訳 

カルマパ3世 ランジュン・ドルジェ 

Karma pa Rang byung rDo rje  (1284 1339

 

 鉄・猿の年(1284年)の一月八日、西チベットのティンリ地区にカルマパ3世ランジュン・ドルジェは生まれた。生まれようとしているとき、月は上りつつあったが、生まれ落ちた赤ん坊は身体を起こして坐り、「月が昇った」と話したという。

 子供時代のランジュン・ドルジェは恐るべき早熟ぶりを示した。3歳のとき、一緒に遊んでいた友だちらに向かって、彼は突然玉座を作るようにと言った。「模造玉座」が作られると彼はそれに坐り、黒い帽子をかぶり、自らカルマパ・ラマであることを宣言した。

 この驚くべき子どものニュースはたちまち広く、遠くまで伝播し、ラマ・ウルギェンパの耳にも届いた。このドゥクパ・カギュのラマは5歳になったランジュン・ドルジェに会いたいと考えた。この子どもの精神的能力の高さを実際まのあたりにしたラマは、この子こそがカルマパの輪廻転生にちがいないと確信した。そこで彼は、両者の関係をあらたに強めるために、チャクラサムヴァラとヘーヴァジュラの灌頂をランジュン・ドルジェに授けた。

 新しいカルマパの教育と修練がはじまった。ランジュン・ドルジェは7歳になり、ラマ・クンデン・シェラブから戒を授かった。つづいてツルプ寺でカルマパ・ラマの座に正式に就いた。ツルプ寺での修練がつづき、11年間、ラマ・ニェンレ・ゲンドゥン・ブムとラマ・ナムツォワからカギュ派とニンマ派の完全な教えを学習した。前者はランジュン・ドルジェをインドの偉大なるタントラの聖人サラハの生まれ変わりと見た。彼はこの学習集中期間を、エベレストとして知られる「偉大なる白雪の女神」チョモ・ガンカル山の近くにこもり、瞑想しながらまっとうした。

 18歳のときランジュン・ドルジェは偉大なるカダムパのサンプ寺院へ旅をした。彼はそこで住持のサキャ・ションヌから戒を授かった。彼はそこにしばらくとどまり、哲学、論理、仏法について広く学んだ。彼が学んだものにはヴィナヤ(戒律)、心の陶冶(blo sbyong 修心)、マイトレーヤの5つの経典(’byams chos lde lnga)、マディヤマカ(中観)哲学、アビダルマ、プラジュニャーパーラミター経、シャーストラ論説などが含まれていた。

 カルマパ3世は何にでも興味を示す生徒だった。前世から理解しているものがあるのだが、それ以外に新しいものと古くから引き継がれたもの両者から学ぼうとした。彼は同時代のもっともすぐれた学者から教えを受け取った。例として、ラマ・クンガ・ドンドゥプから受け取った教えは特記すべきだろう。

カーラチャクラ:根本テキストと論説 
グヒヤサマージャ・タントラ 
チャクラサムヴァラ・タントラ:根本テキストと論説 
ヤマーンタカの教え 
ヴァジュラマーラーの教え 
ヘーヴァジュラ・タントラと論説 
サムプティカ 
グヒヤガルバの教え 
穏やかな、そして怒りの神々の教え 
ダムパ・サンジェイのシ・ジェーパの教え 
マチク・ラプドゥンのチュー(断)の教え 
サキャパの道果(ラムデ―)の教え 
カーラチャクラのシャダンガ・ヨーガ 
カンジュル(仏説部)とテンジュル(注釈部)の経典群 
ヒンドゥー哲学の比較研究 

 ランジュン・ドルジェはカーラチャクラの灌頂を受け取ったとき、身体の内部に全宇宙が収まっているという幻視体験をした。これに触発されて彼は占星術に関する非常に強く影響力を及ぼすことになるテキストを書いた。

 ラマ・クンガ・ドンドゥプからの学習が完了すると、ランジュン・ドルジェはツルプ寺近くのガルダ城の隠棲所で瞑想修行に入った。この修行中彼は夢を見た。夢の中で、ナーガールジュナ(竜樹)の教えが彼の亡きグル、ウルギェンパによってもたらされたのである。

 ランジュン・ドルジェの学習範囲は広がり、医学の分野にまで及んだ。ラマ・バレから彼はソワ・リクパ(gso ba rig pa 医方明)の医学教育を受けた。つづいてカルマパは寺にしばらく残り、学識のある住持ツルティム・リンチェンからさまざまなことを学んだ。それを以下に列挙したい。

グヒヤサマージャ・タントラ 
マディヤマカ(中観)哲学 
マハーマーヤー・タントラ 
ヘーヴァジュラの教え(ンゴク・チョドルとメトン・ツォンポの系統) 
ヤマーンタカ・タントラ群 
チャクラサムヴァラ・タントラ 

 のちにランジュン・ドルジェはニンマ派のニンティク(深奥の本質)の教えのもっとも重要な唱道者であるリグズィン・クマーララージャから学んだ。この教えは8世紀にパンディタ・ヴィマラミトラによってチベットに導入された、裸のままの意識を通じた仏性のダイレクトな体験を明かすものである。この教えはランジュン・ドルジェに影響を与えつづけた。彼は瞑想のなかで、ヴィマラミトラが額に吸収される幻視を見た。この教えの影響を受けたことによって、ランジュン・ドルジェはカギュ派の「大いなる印」(マハームドラー)と「大いなる完成」(ゾクチェン)という二つの教えをひとつの大きな潮流にまとめることになった。

 ランジュン・ドルジェの学問の深さと広さは、ヨーロッパのルネッサンスの人間にたとえられる。そしてチベットでは彼はのちのリメ(超宗派)運動の先駆者とみなされた。チベットにもたらされた大半の仏教の教義や灌頂などの儀礼、仏典の伝えようとしている趣旨を咀嚼して、彼は多くの重要な幻視を体験し、それを書いて残した。それらはカギュ派にとって先駆けとなる重要なもので、「内奥の深い意味」(zab mo snang don)と呼ばれるタントラの本質に関するかけがえのない論説である。

 学問研究を終えたランジュン・ドルジェは、南チベットを旅しながら、教えと灌頂を人々に授けた。彼はコンポ地区に三年間滞在した。彼の存在と仏法大師としての名声に鼓舞されて、多くの人々が仏法を学んだ。

 ランジュン・ドルジェの名声は遠くモンゴルにまで及び、トグ・テムールの耳にまで届いた。テムールに招待されたランジュン・ドルジェは中国に向けて出発したが、途中で彼の一行は季節はずれの悪天候にはばまれてしまった。翌年の春、彼はもう一度中国へ向けて出発した。途中で今度はさまざまな兆しがあらわれた。それは皇帝が死去したことを物語っていた。旅を再開する前にランジュン・ドルジェは皇帝のために死の儀礼をおこなった。水・猿の年(1332年)の十月十八日、一行はようやくタイヤ・トゥの宮廷にたどりついた。皇帝トグ・テムールは実際に兆しがあらわれた日に亡くなっていることがわかった。それでも皇室の家族と宮廷はランジュン・ドルジェを歓迎することができた。

 カルマパは逝去した皇帝の弟トゴン・テムールに帝位に就く前に6か月待つようアドバイスし、トゴンが偉大なる君主となることを予言した。水・鳥の年の一月十五日、新しい皇帝は、ランジュン・ドルジェの司る盛大なセレモニーのなか、玉座に就いた。

 木・犬の年、カルマパはチベットへの帰還の旅に出発した。サムイェー寺近くにパドマサンバヴァによって聖化された長寿の泉(tshe chu)があるが、皇帝への贈り物としてその水(甘露)を得るという目的もあった。途中で彼はカギュ派のためにいくつもの寺院を建立した。そのうちもっとも重要なもののひとつは中国のマンジュシュリーの五つの峰、五台山に建てた寺院だった。

 チベットに戻る途中、ランジュン・ドルジェは教えを説き、政治的問題の解決をはからざるをえなくなってしまった。つづいてカルマパはトゴン・テムールから中国を訪れるよう要請があった。そこで火・鼠の年、カルマパはふたたび中国へ向けて出発した。長い旅の間ずっとランジュン・ドルジェは仏法を説いた。到着したとき、皇帝は彼を笑顔で迎えた。皇帝はカルマパからツェチュの甘露を受け取ったが、それによってモンゴルの皇帝のなかでもっとも長く生きることができた。ランジュン・ドルジェはこの滞在中、新しいカルマパの寺院を創建した。彼はまた当時中国を苦しめていた天候不順による作物の不作の問題を解決した。

 地・兔の年(1339年)の六月十四日、ランジュン・ドルジェは皇帝に自身の差し迫る死の予感について話をした。彼はチャクラサムヴァラ寺院にこもり、ヘールカについて瞑想し、瞑想中に逝去した。翌日、皇帝と皇后に対して最後の教えを説くかのように、彼の顔が満月の中にあらわれた。

 ランジュン・ドルジェのヴァジュラヤーナ仏教における影響ははかりしれないものがあった。彼のかけがえのない論説とともに、彼の教えは成就した弟子たちによって広められた。彼は有名なサキャ派の学者ヤクデ・パンディタやニンマ派の深さを知るグル、ロンチェン・ラブジャムパらに教えた。そのリストにはほかの弟子たち、シャマル・リンポチェやダクパ・センゲ、そしてトゴン・テムールも加えるべきだろう。