位 待乳山(本龍院)の霊妙なるパワー     宮本神酒男 

 待乳山(まつちやま)は自然堤防なのか、それとも人工的な築山なのか、ずっと論議されてきました。上空から見ると前方後円墳に見えなくもないので、要塞というより巨大墳墓の可能性があります。前方後円墳を主張した代表格は中国西南などのフィールドワークで知られる民族学者、考古学者の鳥居龍蔵(18701953)でした。しかしあえなく学界からは否定されてしまいました。石棺のような決定的な証拠が発見されないかぎり、墳墓説が日の目をみることはなさそうです。

待乳山聖天は見晴らしのいい丘の上に立つ 

 池波正太郎によりますと、徳川家康の江戸開府の頃、待乳山を削って日本堤を築いたということです。いくら水害を防ぐためとはいえ、聖地である山を削るというのはもったいない考えでした。

 縁起によると、推古天皇の御世の西暦595年、土地が盛り上がり、そこへ金竜が舞い降りたといいます。石浜神社の起源と同様、待乳山聖天の起源も伝説の深い霧に覆われています。しかし待乳山が早くから聖地であったことはまちがいないでしょう。

 古代の待乳山の姿を知るための鍵を握り、地名の由来ともなったのは、土師真中知です。土師(はじ)氏は埴輪を作っていたことが認められ、土師姓をもらった一族です。江戸時代はじめの歌学者戸田茂睡は真中知を「マツウチ」と読みました。『名霊抄』は真人と書き、「まつと」と読ませています。この土師真中知(はじのまつち)は、浅草寺創建者のひとりとみなされる人物です。うがった見方をするなら、土師真中知は浅草寺を創建し、死去したあと待乳山に埋葬されたのかもしれません。

 
商売繁盛の巾着と夫婦和合の二股大根のシンボルマーク。右は大根まつりのときの大根のお供え(2015年1月7日)  

 待乳山の本尊は歓喜天(聖天)と十一面観音です。とくに歓喜天は秘仏中の秘仏です。一年に一度くらいは開帳するのではないかと思って、この寺の僧侶に聞いてみたことがあります。

「ご開帳はいつされるのですか」
「開帳はしません。秘仏ですから」
「それは歓喜仏だからですか」
「それは……よくわかりません」
「わからない?」
「私も見たことないので」
「見たことない?」
「見たことはありません。秘仏ですから」

チベットのナンディケーシュヴァラ。聖天様とほぼおなじと推測される  

 驚くべきことに、お坊さん自身が歓喜天を見たことがないというのです。歓喜天というのは、おそらくガネーシャの象の鼻をもつ神が女神と合体している歓喜仏のはずです。チベット密教になじみのある者ならさして違和感を覚えませんが、そうでない仏教信者にとっては衝撃的な姿と思われます。R15指定にすべきでしょう。歓喜仏を見て、ワイセツ、あるいは猥雑と感じるなら、その人は表面的な現象に惑わされ、本質を見ていないことになります。そうした見誤りの危険性があるため、あえて秘仏としているのです。

 秘仏であることはわかりましたが、つぎなる疑問がフツフツと湧いてきます。聖天様はどう見ても仏教ではなく、ヒンドゥー教の神様ではないのか。

「聖天様は(ナンディケーシュヴァラという言葉が出てこなかったので)ガネーシャではないのですか」

「いえ、ガネーシャではありません。ナンディケーシュヴァラなのです」

 ガネーシャはシヴァの息子なので、ヒンドゥー教の神であり、いわば外道です。その外道の神が仏教に調伏されることによって、仏教の力強い守護神となったのです。



 明治二十年代、作家・批評家の内田魯庵は、『国民新聞』の仲間である久保田米僊を梅見に誘い、途中から加わった作家・ディレッタントの淡島寒月とともに3人で現在の台東区や墨田区を散歩します。(山口昌男『内田魯庵山脈』)

 聖天様に着いて、石段を上ると、右手に涎掛けを何枚も着けた石仏がありました。これは阿弥陀様か地蔵尊かと問うと、寒月は小町の像だったが、いつの頃からか地蔵尊になったと答えました。そのあと拝んでいたお婆さんに何の仏様かと聞くと、「子育て地蔵です」と言い、ご利益について聞くと、「疝気(せんき)に効く」と答えたそうです。疝気という言葉は聞きなれませんが、下腹部の痛みのことを言います。「疝気の虫」という言い方もあるので、当時は寄生虫が痛みを起こしていると考えたのでしょうか。

 ここにある地蔵尊が当時の小野小町の像が変じてなった子育て地蔵かどうかはわかりませんが、待乳山のお地蔵様は、霊験あらたかとみなされてきたようです。