火伏せの橋場不動尊
浅草七福神のなかでもっともわかりにくい社寺はといえば、橋場不動尊でしょう。最近橋場通りから不動尊へ入る入り口に駐車場ができたので、いくらか見えやすくなりましたが、去年までなら通り過ぎてしまいそうな目立たなさでした。
しかしこの不動尊が不思議な力を持っていることは間違いありません。
それは数々の試練を乗り越えてきた数少ない社寺であることが証明してくれます。吉原大火(1911年)、関東大震災(1923年)、東京大空襲(1945年)という大災害をほぼ無傷で乗り越えてきたのです。とくに焼野原になった東京大空襲で被害が少なかったのは、奇跡としか呼びようがありません。そのため「霊験あらたかなる火伏せの橋場不動尊」という称号を得るにいたりました。
『新編武蔵風土記稿』によると、この石浜、橋場あたりは砂尾とも呼ばれていて、砂尾長者という者がこの地を領有していました。その砂尾長者が(HPによると寂昇上人によって)天平宝字四年(760年)に創立したのが天台宗寺院の不動院でした。(天台宗砂尾山橋場寺不動院が正式名)
この寺の不動明王は『江戸名所図会』に載るほど有名でした。それによると、もともと良弁僧都が相州大山寺にいた頃に彫った3体のうちのひとつだったのですが、寂昇上人がたまたまこのあたりを通りかかり、「霊告を得て有縁の地たることを知り」ここに草庵を結んだのでした。
この不動明王は古く、すばらしいものですが、この不動明王は秘仏で、拝観することはできないそうです。しかしそのかわり鎌倉時代の作の不動明王を拝むことができます。
橋場不動尊から西へ100mほど行くと、玉姫神社があります。この神社の境内や隣接する公園には、山谷の労働者がビニールシーツを張って生活する光景が見られます。この玉姫は砂尾長者の娘だということです。玉姫は失恋して西にある池に身投げをしました。玉姫を祀るために建てたのがこの神社といいます。(この池は橋場と清川の間にあった鏡が池かもしれません)
砂尾長者から数百年の時が流れて、砂尾修理太夫という名が見えます。太田道灌(1432−1486)と合戦をしたという記録があり(実際にあったという確認はされていない)15世紀に生きたことがわかります。この砂尾修理太夫はその名が示す通り、修理をして、不動院を再興したのかもしれません。