首塚地蔵の謎    宮本神酒男 

 なんて不吉な名称なんだろう、とこの地蔵の前を通り過ぎるたびにつぶやいてしまいました。あらためて地蔵尊の前にとまって説明ボードを見ると、つぎのように書かれていました。

天保四年(1833年)洪水の危険を防ぐための隅田川橋場附近の川浚い工事の際に、川床より多くの頭骨が発掘された。関係者は当山第十六世住僧宥照和尚とはかり、ここに合葬、碑をたてて「首塚」といったと伝えられる。この頭骨の由縁については諸説あるが、爾来、歴代住僧ならびに信者により護持され、今日にいたる。この縁で、首から上の病に効験があるからと、参詣の香華がたえない。

 本当に首ばかりが納められているのです。しかし「多くの頭骨」の「多く」とはいくつなのでしょうか。数えきれないということなのでしょうか。たとえば数十の頭骨というのなら、どういう場合に頭骨が集まるのでしょうか。

 考えられるのは、橋場の側ということですから、石浜城の戦いの際に取れた首級ということです。足利尊氏は石浜城にこもって戦ったことがあります。足利か千葉か、だれかわかりませんが、合戦のあと首級を取ったこともあったでしょう。

 もっとありえそうなのは、やはり何かの戦いが終わったあと、武士の一団が首級をまとめて持ち帰るとき、川に沈んでしまったのではないでしょうか。橋場の渡しを渡るとき、強風にあおられて舟がひっくり返ったのでしょう。これなら10個くらいの頭骨が見つかっても不思議ではありません。

 それぞれの首に生前、人生があり、楽しんだり悩んだりしたのでしょうが、名も出身地もわからず、どの戦いで死んだのかも不明なのでは、魂も浮かばれないように思います。しかもいまや掘り返すわけにもいかず、いくつの頭骨が埋められているかもわからないのです。いわんや頭骨以外の骨がどこに行ったかもわかりません。

諸行無常とはこういうことなのかと、しみじみと考えました。

 ただ地蔵尊としては、さまざまな願いを聞き入れてくれるようです。とくに子育て地蔵の役割も担っているようです。人形(リカちゃん人形?)や日本人形までもが供えられていますが、見ていると少し怖くなってきます。