時を超えた母の嘆き 妙亀塚と梅若塚 

横から妙亀塚を眺める 

 前章(「満願地蔵と其角と采女」)のおさらいをしますと、遊女采女は愛するお坊さんが自害したことにショックを受けて、鏡が池に投身自殺します。鏡が池は実在した池(清川1丁目)で、お坊さんが所属したかもしれない出山寺の隣にありました。出山寺の前の通りの向こう側(橋場1丁目)には浅茅ヶ原が広がっていました。この浅茅ヶ原があったところに妙亀塚があるのです。もともと丈高い茅(かや)だらけの草地に塚があったはずですが、いまはこぎれいな公園になっています。

妙亀塚の上の板碑。弘安十一年(1288年)の銘 

 妙亀というのは、人買いの信夫藤太にさらわれたわが子梅若丸を探し、ここまでやってきた吉田惟房の妻斑女のことです。武蔵国と下総国の境界である隅田川までやってきたものの、梅若丸がすでにこの世を去っていたことを知ります。嘆き悲しみ、出家して妙亀尼と称し、庵を結びましたが、三年後、鏡が池に映るわが子の姿を見て、池に身を投げてしまいます。采女よりずっと前に妙亀尼は鏡が池に身を投げていたのです。

 妙亀塚の上には弘安十一年(1288年)と銘打たれた板碑がたっています。あまりにも自然なので塚ができたときからあったように見えますが、板碑と塚との関係ははっきりとはわからないようです。妙亀の霊を慰めるために板碑を捧げたのかもしれません。

 板碑はじつは歴史資料としてはたいへん貴重なものです。これは鎌倉時代から室町時代にかけて流行した仏教の信仰形態といえるでしょう。台東区の板碑は、失われたものを含めると119基が確認されるそうです。

 梅若丸の菩提を弔うために妙亀尼が結んだ草庵をもとに、総泉寺が建立されたといいます。当初は法相とも律相ともいわれますが、のちに千葉氏の外護する寺となりました。

 現在の妙亀塚のあたりに総泉寺の門がありました。平賀源内の墓も総泉寺のなかにありました。しかし関東大震災のあと板橋区小豆沢に移転して現在にいたっています。

木母寺の中にある梅若塚 

 梅若丸の死を弔った梅若塚は対岸の木母寺にあります。梅若丸の辞世の句は「尋ねきて 問はばこたへよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと」でした。12歳の少年とは思えない大人びた歌です。本当に作者かどうか疑いたくもなるでしょう。槇野修氏の紹介する説によれば、この塚は梅若塚ではなく、業平の歌を埋めた埋和歌塚とのことです。ただ伝説は伝説であり、その歴史を穿鑿するには限界があるかもしれません。