鬼婆がいない浅茅が原     宮本神酒男 

 皮革製品の町として有名ですが、最近はデモの集合地として知られつつある花川戸の花川戸公園。ここがかの浅茅ヶ原鬼婆伝説の現場とは、デモ参加者のどれだけの人が気づいているでしょう。

浅茅ヶ原の鬼婆はこの下で眠っている? 

 浅草寺本坊の伝法院にある石棺は、明治二年に観音堂裏の熊谷稲荷社の塚をくずすときに発見されました。このことから古墳時代末期には浅草寺あたりに人が住んでいたことが確認されます。承応縁起に書かれた「浅茅ヶ原ひとつ家」は浅草寺創建の頃の話なので、浅茅ヶ原伝説もまたかなり古くからあったことがわかります。

 室町時代に道興准后(どうこうじゅごう)が「この里のほとりに石枕といへるふしぎなる石あり」と『廻国雑記』(1487頃)に書いています。この石枕とは、老婆が美しい娘を使って旅人を招きよせ、石枕で客の頭をたたき割り、その金品を奪っていたという「浅茅ヶ原鬼婆伝説」の石枕のことです。

 『江戸名所図会』によると、『廻国雑記』に書かれているエピソードは一般に流布しているものと異なります。鬼婆の単独犯ではなく、両親による共犯なのです。娘も美女というほどではなく、「容色おおかた世の常なり」となっています。美人すぎるとかえってあやしまれるのでしょう。

 こうしてこの家族は悪事を重ねていくのですが、娘はしだいに耐えられなくなってきます。「あなあさましや、幾ほどもなき世の中に、かかるふしぎのわざをして、父母もろともに悪種に堕して、永劫沈淪せんことのかなしさ」と嘆き、「父母を出しぬこう」と決意をかためます。

 「道行く人あり」と告げて、娘は石に臥せました。いつものように両親は旅人を殺します。しかしそこに人がひとりしかいないことに気づき、それが娘であることがわかったのです。後悔した両親はすみやかに発心し、たびたびの悪業をも慚愧懺悔して、娘の菩提を弔ったのでした。

 鬼婆伝説は鬼子母神の説話とよく似ています。物語自体は仏教説話のバリエーションといえるでしょう。しかしこのことから、古くより(用明天皇の時代の6世紀となっている)浅草寺のあたりが交通の要衝であったことがわかります。

江戸時代の古地図を見ると、たしかに浅草寺の南に鬼婆が死体を投げ入れたという姥が池があります。かつては隅田川に通じていたというから、もとはもっと大きな池だったのでしょう。あたりは茅(かや)ばかりの原が広がり、そのなかの道を歩くのは怖かったでしょう。実際、旅人を襲う強盗は多かったのです。

 『遊歴雑記』には「里諺にいいつたふ、日はくるる野には臥すとも宿からじ浅草寺の姥が庵に」という歌がのっています。浅草寺には賑わいがあっても、すぐその隣には鬼婆の潜む暗闇の世界があったのです。