カイラスの光 シャンシュンとチベットの歴史 (上) 

ナムカイ・ノルブ 宮本神酒男訳 

カイラス山はシャンシュン国の象徴的存在でもあった 
Photo by M. Miyamoto

シャンシュン その簡単な紹介 

 シャンシュンは古代においてはよく知られた王国だったが、のちに人類の大半から忘れ去られてしまった。この国と関わりがあるはずのほとんどのチベット人にとっても、シャンシュンはほとんど名前だけの存在か、昔話にたまに登場する国にすぎない。それが歴史上実在したことを知っている人も、記憶にとどめている人もほとんどいないのが実情である。

こうなってしまった根本的原因を探ると、シャンシュンの最後の国王、リクミキャ(Lig mi rkya)の時代に遡ることになる。7世紀、この国王のときにシャンシュンはソンツェン・ガムポ王のチベット(吐蕃)に敗れ、併合された。このことは敦煌文書にも記された歴史的事実である。このとき以来、チベット人は彼らの歴史、文化、政治が、その形式、中身とも、シャンシュンから受け継いでいることを認識するようになった。同時に彼ら自身のほうが本家であるかのような画策もおこなってきた。こうしてチベット人の大多数は次第にシャンシュンの特徴的な歴史、文化、政治のことを忘れていったのである。そしてシャンシュンの伝承をもっている人々さえもがシャンシュンは伝説的な存在で、昔話のテーマにすぎないと考えるようになった。

 シャンシュンの歴史、文化、政治はボン教と切っても切れない関係にあった。ボン教はこうした時代にチベットに融合したが、その起源はシャンシュンに求められる。このことから、ボン教の歴史を研究するということは、シャンシュンの過去について研究するということだといえる。シャンシュンの真の歴史を探るということは、ボン教の根源を探るということである。ボン教とシャンシュンは表裏一体の関係にある。

 仏教がインドからチベットに伝播しはじめると、それを信仰する者たちは、聖なるダルマ(仏法)がいかにすぐれているか喧伝し、古代チベットにボン教が根付いていたという事実を無視し、あらゆる手段を用いてボン教を貶めるようになった。その結果、長い時間を経て、古代チベットの歴史は見えにくくなり、チベットの本当の歴史およびチベット文化は、仏教がもたらされたことによって花開いた、あるいは仏教を通してのみ知ることができるという偽りが信じられるようになった。

 あきらかにチベットの実際の歴史はこうした見方のとおりではなく、このことから現代のチベット文化の研究者にはシャンシュンとそれに関連したボン教の歴史について調査し、真実をあきらかにする責任があると私は信じる。

 私に関していえば、20年以上にわたってできるだけ徹底的に、シャンシュンとそれに関連したボン教の歴史、およびさまざまな文化の側面を研究してきた。しかしながら断っておくが、われわれが論じていることは3千年前以前、おそらく4千年近く前のことに及んでいて、その歴史や文化について確信をもって言うのはきわめて困難である。それゆえ意義深いことでも疑いをまったくさしはさめないわけではなく、それが問題となる場合もある。シャンシュンの歴史に照明を当てるためには、スタート地点に使ったいくつかの文献以外にも、確たる証拠を示すものが依然として必要とされるだろう。

 私の調査の結果はこれまで以下の著作のなかに反映されてきた。

『ズィ(縞瑪瑙)の首飾り』 

『ドゥン、デウ、ボン』 

『シャンシュンとチベットの古代史の宝飾鏡』 

『カイラスの光』3巻 

 これらの著作のなかで、私はシャンシュン王国とボン教がチベットの歴史と文化の真の起源であることを示してきた。そして彼らの本当の姿が古代のできごとのなかにあらわれていると説明してきた。私はまた彼らの発展のさまざまな側面から年代記を作製してきた。言うまでもなく、この分野にこれから身を捧げて行こうとする人々の手助けとなることを願ってのことだ。

 シャンシュンという国、およびそれに関連したさまざまな側面は、シャンシュンやボン教の歴史の太古の昔から変わらない要素から成り立っている。古代の歴史の信憑性を高めるのは、それがどのようなものであれ、つねに歴史に関わる人々に属する考古学的な証拠があるかどうかにかかっている。それが遠い過去を再構築するために必要とされる唯一の方法である。