リン・ケサルの英雄叙事詩 

 ドゥン(sgrung)、すなわちチベットの英雄王リンのケサルの生涯を叙述した英雄叙事詩の物語は、いわゆる叙事詩人(ドゥンパsgrung pa、ドゥンケンsgrung mkhan)のレパートリーのなかでも中核をなすものである。物語は即席に歌われ、語られてきた。あるいは写本や印刷された本として存在してきた。今日、叙事詩人は、多くの場合、書かれた、あるいは印刷されたテクストを使用する。

 ケサル王物語がもっとも盛んな地域は東チベット(カムとアムド)であり、中華人民共和国に統合されるまで、ラサの中央集権から独立した数多くの小国や部族があり、そこに住む遊牧民や定着した農民が担い手であった。これらの地域はチベット自治区ではなく、雲南、四川、青海、甘粛省の一部である。しかしながら物語はチベットのすべての地域において、モンゴル人のあいだと同様によく知られている。

 チベットのはるか西には、分離した(そして完全に口承の)英雄叙事詩の伝統が存在する。20世紀初頭、モラヴィア教会の宣教師A・H・フランケによって、このラダック・バージョンは西側にはじめて知られることになった。(1901190219051909) 

この西チベット・バージョンには、ケサルの誕生、子供時代、結婚、そしてリンの支配者になることといった、基本的なエピソードが含まれていた。また北の魔王ルツェンやホル(テュルク系の人々の国)とのケサルの戦いのエピソードも含まれていた。

 これらのエピソードは東チベット、西チベット両者において一般的であり、物語の核とみなされている。これらはまたモンゴルの1716年に最初に印刷されたバージョンにも含まれていた。(ダムディンスレン1985、ヘイシグ1983

 東チベットには、ケサル率いるリンの英雄たちとほかの地域の支配者や戦士たちとのあらゆる種類の戦いを描いた、さらに多くのエピソードを含む物語が伝えられている。その地域というのは、ジャン(ナシ族)、モン(ブータン?)、タシク(イラン)、カチェ(カシミール)、スムパなのである。これらの付加的なエピソードは、それらが上述の基本的なエピソードから発展したのであるが、モンゴル・バージョンには含まれていない。(ヘイシグ1983

 付加的なエピソードのうちのいくつかは、きわめて新しい。ジャル(ドイツ?)やウヤンとの戦いを扱った2冊の物語は有名なカギュ派ラマ、カムトゥル・リンポチェ8世(19291980 Khams sprul Rin po che)によって書かれたものである。もうひとりのカギュ派ラマ、カル・リンポチェ(19061989)はケサルと地獄の王ヤマについて書いている。中国内で、あるいは国外で、最近多くのケサル王物語が印刷されたが(P・ツェリン1982)、さまざまな編集によっておびただしい数のエピソードを見ることができる。そのなかには31巻のブータン編集版も含まれている。(トプギェルとドルジ1979

 また物語のチベット・バージョンに、じつにたくさんの西欧の研究調査がなされてきた。もっとも、それらはモンゴル・バージョンほどには注目されてこなかったのだが。フランケの初期の西チベットのケサル王物語の研究のあと、つぎの記念碑的な研究成果は、著名なフランス人仏教研究者アレクサンドラ・ダヴィッド=ネールと養子のラマ・ヨンデンによって生み出された東チベット・バージョンの概要版だった。(ダヴィッド=ネールとヨンデン1933) このバージョンは核となるエピソードに加えて、いくつかの捕捉的な章を含んでいた。

 1950年代、ロルフ・スタンは、20世紀初頭のニンマ派ラマ、ジュ・ミパムの監督下で印刷されたよく知られたチベット語バージョンをもとに、3つの中核となるエピソードの編纂と翻訳を出版した。(1956) スタンは英雄叙事詩(ケサル王物語)と叙事詩人の研究をさらに細かく追及し、仕上げた。(1959) 

 もっと最近では、ミレイユ・エルフェはスタンが出版した3番目のエピソード、すなわちケサルが妻を得てリンの国王となる競馬の巻の歌を詳しく研究した。マティアス・ヘルマンス(1965)による、そしてもっと最近ではペマ・ツェリンやルドルフ・カスチェフスキーによるドイツ語バージョンから多くのエピソードを知ることができる。(カスチェフスキーとツェリン19721987、ツェリン1985) これらの英雄物語の研究に加えて、西チベットのケサル王物語の研究も現れている。(ヘルマン1987) 

 これらの学者たちの物語に対するアプローチの仕方はさまざまだ。エルフェのとても価値ある研究が文語と音楽学に焦点を当てているのにたいし、カスチェフスキーとツェリンの研究は、部分的には原文を生かした編纂を心がけ、またスタンの1956年版と同様、その他はテクストの翻訳を要約した。スタン(19591979)とヘルマンス(1965)は英雄物語の歴史的背景を推測した。とくにスタンは、ローマ帝国(=Khrom/Phrom)の王カエサル、すなわちビザンチン帝国皇帝の呼称の遠い反響としてケサルの名がはじまったこと、そしてのちにリン・ツァン国によって祖先のひとりとみなされたこと、また仏教的な人物となっていった過程をたどった。(スタン1979、ウライ1985、カスチェフスキーとツェリン1987) 

 ロバート・ポール(1982)は刺激的だが、エクセントリックな著書『チベットのシンボル世界:心理分析学的冒険』においてケサル王物語のシンボリズムの極端な解釈を提供してくれる。ポールは1章をケサルの分析にさいて、彼が空間を得たなら、より多くのものを欲しがる傾向にあると示唆している。(1982) しかし結論は失望させるものだった。というのも物語におけるポールの興味の対象は、ほかのチベットの文化的素材と同様、人間の序列、簒奪者、復讐者、無垢の後継者、広義のエディプス・コンプレックスといったことのシナリオに則したものだった。(サミュエル1983) 

 ポールの典型的な分析はケサルが北の魔王ルツェンを古老ときに見られる。ケサルは魔王の妻の協力を得て穴に隠れる。ケサルはその穴から出て魔王を殺すことになる。「ミラレパの母のように」とポールは述べる。「ドゥモは英雄の仲間になることによって、象徴的な父殺しという行為を実行する」(ポール1982) しかしながらミラレパの場合と完全におなじというわけではない。

 

 父を殺すために母の子宮から出てくるというパターンは、ミラレパの行為と対照的だった。ミラレパは子宮から出てきたわけではなく、洞窟の中で、母の骨と弟子になった親戚の女性たちとともに一生を過ごしている。これが、聖人と英雄との差異である。ミラレパはケサルと違って父を殺していないのだ。(ポール1982

 

 チベット人にとって、ポールのこの種の高度に抽象的なフロイド理論は無用の長物でしかない。しかしながらケサルとミラレパの比較は、一見そう見えるほどにはばかばかしいものではない。(サミュエル1988) 

思うに、ケサルを象徴的な人物の紳士録、つまりミラレパ、マルパ、パドマサンバヴァ、ツォンカパ、それにドゥクパ・クンレーやアク・トゥンパをも含めた、錚々たる名前の列に入れ、似たところ、違うところを見出していくのには意味があるはずである。

 にもかかわらず、チベット人自身の語彙や象徴性からかけ離れたポールの還元主義的な考え方には、深刻な問題点があるといわざるをえない。彼はチベット人の文化的役割には興味がなく、もっぱら汎文化的なフロイド主義モデルの提示に躍起になっているようなのだ。したがって、たとえばケサルの権威の本質が何であるか、彼は考えることができず、考えようともしない。ポールにとって王権とは、フロイド主義の第一のシナリオに根差した、あらかじめ与えられた、ほとんどプラトン主義的な理論である。そして唯一問題とすべきことは、文化的象徴性がどのように体現されるかということなのだ。(同上1987

 ポールにたいして明確に述べていないことまで批判するのは、アンフェアだと言われるかもしれない。しかし王権に関する硬直した考え方は、チベット人社会には適用できないものなのだ。どこかで論じたように、チベットの歴史において政治的中央集権は、かぎられた期間しか実現しなかった。(サミュエル1982) チベットの歴史上、ほとんどの時期において、いくつかの中央集権的な国家があったにすぎない。それらの権威が及ぶのは限られた範囲内だった。範囲内の権威も強いこともあれば、弱い場合もあった。多くのチベット人はこれらのレジームの権威が十分に及ばないところにいた。

 人類学的に見ると、平等主義とヒエラルキー的な社会構造のあいだで揺れるチベット人は、東南アジアの「銀河のような」中央集権制度よりも(タンバイア976)、あるいは南アジアよりも(セネヴィラトネ1987、タンバイア1987)、高地ビルマのカチン族に近い(リーチ1970)。

 中央チベットの広大な地所は、その居住者が農奴と呼ばれようと呼ばれまいと、ひとつの極端な例だった。(ゴールドスタイン1986) これらの辞書は疑いなくヒエラルキーの政体を成していた。中央集権の度合いは誇張されていたにしても。(サミュエル1982、ゴールドスタイン1971

 もう片方の極端な例として、東チベットのゴロクのような、自治政府的な部族社会があった。シェルパのような人里離れた地の農村の人々や、ドルポパのような中央集権の権威に対し名目上の敬意以上のものを払わない人々もあった。

 このようにチベットの政治的な形態は国家を持たないこともあれば、中央集権的な体制を作ることもあった。ヒエラルキー的であることもあれば、平等主義的なときもあった。これはケサル王物語中の政治的権威が複雑であると同時に、注意深く吟味されるべきものであることを示している。つぎの章で提示される分析は基礎的なことであるが、その方向性に沿ってさらなるリサーチが必要であることを示している。