アニ・マチェン大巡礼 

書かれた伝統、生きているリアリティ 

キャチア・ビュッフェトリユ(Katia Buffetrille) 訳:宮本神酒男 


 チベット北東、旧アムド地方の黄河が湾曲する地点にアニ・マチェン山はそびえたつ。アムド地域(サダク)のすべての神の首領として信仰される山だ。

 この山はチベットの偉大なる叙事詩の英雄ケサルと関連している。それにもかかわらず中央チベットの住人はその正確な位置を知らないか、ときにはその存在そのものを知らない。実際、チベット人や西欧人の旅行者が口をそろえて証言する戦争好きの遊牧民族、ゴロク人が住むこの地域に、あえて行こうとした人はほとんどいない。ゴロク人はこの地域に入る道を制限し、黄河の西から近づく者すべてを殺した。これら遊牧民にはつねに考えられるかぎりもっともおぞましい話がつきまとった。剛勇さを保ち、強めるために受刑者の心臓を食べる(ユック、1962)なんていう話もあった。黄河の湾曲の南、ココノール(青海湖)から28日ほどの町ソンパン(松藩)の商人だけがこの地域をあえて通るのだというではないか。(ロックヒル、1975) 安全を確保するためにチベット人は大きなキャラバン(隊商)に加わるという。

西欧の探検家はかわるがわるに困難を体験した。1891年、デュトレイユ・ド・ラン探検隊は襲撃を受け、デュトレイユ自身は殺された。1940年、ギボーとリョタールはゴロク人と出会うのを恐れながら旅をつづけていた。しかし峠でリョタールが撃ち殺され、彼らの探検は終わった。このとき、この山と巡礼のことがほとんど知られていなかったのはちょっとした驚きである。

 西側の資料のなかから、探検家や旅行家が記した筆記を見つけることができるが、とくにこの地方に注目した2つの著作がある。オーストリア系米国人博物学者J・F・ロックは1924年、それから1926年にアニ・マチェンを探索した。そのときロックは2つの山頂のうちひとつがエベレストよりも高いと考えた。

ゴロク人は彼がアニ・マチェンの麓に近づくのさえ、はばもうとした。にもかかわらず、ロックは正確な情報を、とりわけ巡礼者の毎年の巡礼について詳しく知っていた。ロックはゴロクの首領から得た情報をもとに、巡礼の様子を描写することができたのだ。

ロックは12年ごとにおこなわれる馬年の巡礼の重要性を強調した。私自身鉄の馬の年の9月(1990年10月)におこなわれた祝祭に参加した。

 もうひとつのアニ・マチェン情報のソースとなった著作は、レナード・クラークが著したものである。クラークはロックと同様にこの山に魅せられた。1949年、彼はほとんど軍隊といってもいい遠征隊を組織した。彼は山脈の北西隅に着き、そこから最高峰が見えないにもかかわらず、アニ・マチェンの海抜を8476mと算定した。彼の本はときには平板でつまらなく、間違いだらけではあったが、ゴロクが恐ろしくて、同時に魅力的であることを率直な語り口で述べている。また当時いかに動物が多かったかをこの本は明かしている。

 チベット語の文学、たとえば巡礼ガイドやこの地域を旅した聖人の伝記、アニ・マチェン山の賛歌、民間儀礼経典などが十分な資料となるのではないかと期待されるだろう。しかしながら知識のある僧侶が著した文献が光を当ててくれるものの、個別の研究にとどまっている。

 アニ・マチェン大巡礼に参加し、巡礼ガイドを得たいま、書かれた記録と一般大衆の巡礼のありかたを比べることは、意味があるように思われる。彼らの実際の行動はガイドブックが書いていることと一致したであろうか。簡単にいえば、巡礼ガイドは実際にガイドになっているか、たしかめるということである。

 巡礼のときに私が会ったなかでガイドブックを持っているのは、僧ひとりと俗人ひとりのふたりにすぎなかった。両者とも、持っているガイドブックは私が持っているものとおなじだった。(訳注:ガイドブックといっても「ロンプラ」の類ではなく、ネイクgnas yigと呼ばれる聖地指南書である)


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