マハームドラーの教え ケンチェン・タング・リンポチェ 宮本神酒男訳 

イントロダクション 

 

マハームドラーの実践 

 仏教にはさまざまな伝統があるが、なかでもマハームドラーはとくに現代の生活において有用である。私がそう思うのは、何世紀も前にマハームドラーを実践していた人々の時代と現代がよく似ていて、共通点が多々あるので、その教えはわれわれに恩恵をもたらすと考えるからである。2世紀から12世紀にかけてのインドに生きた84人のマハーシッダ、すなわち大成就者は、世俗的な生活のためにも、精神的な実践をする必要があるとみなしていた。

たとえばインドラブティ国王は広大な国を治め、贅沢をこらした生活を送ることができた。しかしマハームドラーの教えを受け、王国を統治している間にもそれを実践し、マハームドラーの最高点に達することができた。一度の人生において悟りを得ることができたのである。

同様に、空(くう)の意味についての論考をたくさん書いた偉大なる学者ナーガールジュナも、困難と責任を伴う膨大な事業に取り組みながら、マハームドラーの最高点に達している。

他のマハーシッダたちは靴の修理屋であったり、弓矢製作者であったり、清掃業者やゴマの種挽きのような卑しい仕事をする人々だった。彼ら全員が世俗的な仕事をしながら、マハームドラーを実践した。彼らにとって、彼らが従事している仕事とマハームドラーとの間に矛盾点はなかった。ダルマの実践と世俗的な活動の間に相反するものはなかったのである。

 西欧にはじつに多くの職業があり、それにしたがってさまざまな考え方がある。マハームドラーの実践はそれぞれの人の生き方や願い、望むことを阻害するものではない。なんら矛盾することなく、ダルマは実践されるべきなのである。

 マハームドラーに関してよいことをひとつ挙げるとするなら、それが平和的でおだやかであることだ。大きなミスを犯したり、われわれを害する状況を生み出したりする危険はほとんどないのだ。

対照的に、うまく実践すれば深遠な結果をもたらすものの、望まない危険を内包する特別な実践も存在する。そうした実践のひとつが暗闇の修行である。一か月かそこら真っ暗な部屋に滞在し、瞑想を実践する。もし適切に行われたなら、それによって深遠なる悟りを得ることができるだろう。しかしもしできなかったら、それはたいへんな困難を個人にもたらすことになる。

もうひとつ例を挙げると、食べ物なしで7日間、あるいは14日間過ごすという修行がある。もしうまくおこなわれたなら、それは「精髄の抽出」と呼ばれる覚醒をもたらすことができるが、そうでない場合、その人は病気になったり極端な不幸せになったりするのだ。

 マハームドラーの実践はそのような危険や混乱からはかけ離れている。それは単純に心をのぞきこむことであり、本性を認識し、理性のなかにとどまるものである。マハームドラーが導くのは教えのエッセンスであり、体や心にいかなる危険ももたらすことはありえないのだ。

 

月明かりのマハームドラー 

 ひとたびマハームドラーを実践すると決めたなら、どうしたら教えに近づくことができるのだろうかという疑問がわいてくるだろう。マハームドラー実践にはじつにたくさんのテキストがある。一部のテキストは途方もなく分厚く、一部のテキストは逆にきわめて簡潔である。西欧の実践者の大半は学校へ行き、分析的な考え方を学んだことがあるだろう。彼らは実践する理由を学びたがるのだ。それゆえ私は偉大な実践者であり学者のタシ・ナムギェルが著した『月明かりのマハームドラー』をテキストとして選んだ。

 このテキストはマハームドラーの教えの本質的なものを集めただけでなく、実践をおこなう目的もまた詳しく説明しているのだ。私自身の体験からいえば、このテキストはなみはずれてすばらしいものである。

 16世カルマパが1974年にはじめてアメリカに来たとき、学生のひとりシェン氏がたずねた。

「もし翻訳するなら、西欧の学生にはどのテキストがいいと思われますか」

 カルマパは『月明かりのマハームドラー』がいいだろうとこたえた。私はカルマパがこのテキストを選んだと聞いて、カルマパが驚くべき覚醒した心の持ち主である明快な証拠だと感じた。カルマパの希望に応じてこのテキストはデシュン・リンポチェの助けを借りてロサン・ラルンパによって翻訳され、『マハームドラー 心と瞑想の精髄』として出版された。一部の学生から翻訳に問題があると聞かされた。おそらく考えの微妙な違いを翻訳するのは困難なことなのだろう。しかしながら私には本質的なものがうまく翻訳できていると思えたし、注意深く読めば読者も理解できるはずだと考えた。

 もし私が多くの年数をかけてこのテキストをゆっくりと、注意深く読みこんでいくなら、学生たちも意味を理解し、仏教の実践の真髄を会得することができるだろうと確信した。このテキストが翻訳され、学ばれ、実践の基本として使われるべきだとカルマパが述べたとき、狙いはまさにそこにあったのだろう。カルマパが寂滅してから何年もたつが、このテキストを広めたいという希望と教えはいまも残っているのだ。『月明かりのマハームドラー』について解説するにおいて、あたかもカルマパに供養を捧げているかのように私は感じる。

 ナーガールジュナの『中論(中道の根本頌)』やチャンドラキルティの『中道入門』など、中道(サンスクリットでマディヤマカ)に関するテキストは、智慧(プラジュナ―パーラミター)の究極について述べている。これらのテキストは物事の存在のしかたについて正しい見方をし、存在の本質について明快に説明している。

 しかしながら、それらは瞑想について言及していないのだ。中道のテキストは見方について述べ、信仰を深め、ダルマを理解することを促してくれるが、実際にどのように瞑想をおこなえば直接的な理解を得られるかについてはひとことも述べていないのである。

 『月明かりのマハームドラー』はその点明快である。シャマタ、すなわち静謐の瞑想とヴィパシャナ、すなわち洞察の瞑想をいかに発展させるかについて説明しているのだ。そこから導き出されるのは、瞑想をすることによって心を休ませ、存在の本質を見ることができるようになるということである。

 さらに言うなら、『月明かりのマハームドラー』はいくつものレベルの瞑想法を示している。もしあなたが瞑想についてよく知らず、はじめかたがわからないとしても、このテキストが解決してくれるだろう。もしあなたが瞑想の経験者で、ある程度の結果を得ていてさらに前進したいなら、テキストはその手助けとなるだろう。

もしあなたが純粋に瞑想を実践したものの障害や困難にぶちあたっているなら、それらがどこからやってきたか、それが何なのか、どうやってそれらを取り除くことができるかについてこのテキストは説明するだろう。すべてはこのテキストによって明快に説明されるのだ。こうした理由からカルマパ16世はこのテキストが西欧人向けに翻訳されるのにもっともよいと述べたのである。

 

心の本性について瞑想する理由 

 なぜわれわれは瞑想を実践するのか、知るのは重要なことである。瞑想には主要なものとして2種類ある。中道学派は永遠の物事、現象がいかに空(くう)であるか、はっきりと、広範囲にわたって説明する。解析的な瞑想において、われわれはこの理由と議論について瞑想する。タントラ、すなわちヴァジュラヤーナにおいては、外的な現象の本性よりも、心そのものについて瞑想する。マハームドラーの瞑想技法はヴァジュラヤーナの本質であり、特徴的なものである。

 400年前のチベットを生きたタシ・ナムギェルは、その時代、瞑想を実践しても現象の本質を理解できない人々がいることを観察した。あるいは本質を知っていても、瞑想の実践はしなかった。彼は瞑想修行と教えの分析的理解を組み合わせることが重要だと述べている。それゆえ見方の説明と瞑想技法の説明が『マハームドラーの月明かり』に描かれているのだ。

 初代ジャムゴン・コントゥル・リンポチェであるロド・タイェは、いかに瞑想するかについての考え方を持たない人間は、手がないのに山に登ろうとしている人のようなものだと述べている。一方で、頭で理解しているものの実践をおこなわない者は、裕福なのにみじめで、自分自身や他者のためにお金を使わない人のように見えるという。しかしもしよく理解し、その考え方にそって実践をおこなうなら、その人は両翼を使い、自由に空間を羽ばたく、大いなるガルダのようであるという。もし瞑想の智慧を持ち、教えを聞く智慧を持ち合わせていたなら、最終的な真実にわれわれは達することができるだろう。

 なぜ心の本性を瞑想することについて教えるかといえば、すべての現象は心だからである。それはイメージや音、におい、味覚、触れるものといった外側のあらわれだけでなく、楽しみや痛み、執着、怒りなどの感覚や思考の内側のものもまた心にすぎない。これらさまざまな心と体の経験は、心自体に帰せられるのだ。

 「心を瞑想する」と言うとき、われわれは心の本性、あるいは心のありかたに言及している。ヴァジュラヤーナにおいて師は弟子に心の本性を指摘する。この指摘はセムティ(semtri)と呼ばれる。セムは心を意味し、ティは「人を導く」ということである。つまりセムティとは「心を導いてあるがままの心を知らしめる」という意味なのである。

 マハームドラーの最初の教えは「すべての現象は心であること」あるいは「すべてのダルマは心であること」である。この教えは最初に示される、というのも心の本性はマハームドラーでもっとも重要なことだからだ。唯心派、あるいはチッタマトラという仏教の学派では、すべては心であるという概念を詳しく説明する。山や家、木などすべてのあらわれは心にすぎないという見解は、論理的な議論のなかで説明される。

 ところが実践という段階になると、これらのあらわれが心であるかどうか意に介さなくなってしまう。というのも瞑想をするにおいてそれは重要なことではないからだ。マハームドラーを実践するとき、われわれが気にかけるのは心の状態である。喜びや苦しみといった感情を気にかけるのだ。心の状態の一面、すなわち信仰や信念、慈しみ、すべての生きる者が覚醒してほしいと願うことなどが、何を自分にもたらしてくれるかのほうが気にかかるのである。

 われわれはまた、散漫な思考やそれを取り除けないといった強い執着や憎悪、無知など、感情をかき乱すもの(サンスクリットで
klesha)が気にかかるのだ。このことを理解して、よき質のものはさらによくし、悪き質のものは除去されるように努めなければならない。よき質を求めながら、ブッダ、ダルマ、サンガに対する信仰と信念を保てば、愛と慈しみの実践をする力はより強くなっていくだろう。そしてこの道のゴールで智慧が明かされることだろう。心のあるがままの状態を理解することによってそれらは得られるのだ。

 論理的な議論によってわれわれは心の本性を知ることができる。そうでなければ経典の権威に頼ってもいいだろう。たとえばランカヴァタラ・スートラはつぎのように述べている。

すべてのものは完全な実在として心にあらわれる 

心なくしてそのような実在は存在しない 

見かけの実在を認識することは、あやまった見方だ 


 サムプタ・タントラはつぎのように述べている。

すべてのものは、見かけにせよ、実体にせよ 

心が介入する 

心なくしていかなるものも存在しない 

 

心の瞑想をしないことから来る問題 

 心の本性を知ることは役に立つが、瞑想の実践はそうではないのだろうか。知ることは役に立つ面もあるが、知ったからといって、欲望や憎悪などのさまざまなネガティブな感情が取り除かれるわけではなく、悟りを得られるわけでもない。これは心の瞑想をしないことから来る大きな問題なのである。

 『月明かりのマハームドラー』はこのように瞑想しない過ちを最初に論議することによってすべてのあらわれは心であるという考えについて瞑想すること、またこの瞑想をすることから得られることについて論議することの重要性を説く。ブッダや多くの成就者は瞑想をしないことの過ちについて何度も述べている。

 たとえば『アビダルマの宝』のなかでヴァスバンドゥは終日お金を数え、札束を積み上げている銀行の出納係の男を例に出している。男は多額のお金を持っているが、そのお金を使うことはできない。なぜならそのお金は彼に属していないからだ。同様にあなたは価値のある教えを聞くことができるし、他人に輪廻のみじめさについて、あるいは解脱について話すことができるかもしれない。しかしそれらについて瞑想しなければ、それらはあなたにとって何の役にも立たないのである。

 『ガンダヴユハ・スートラ』のなかでブッダは、ダルマについてよく知っているが実践をしない人間と、薬についてよく知っているが自分が病気になったとき、それを使用しない医者とを比較している。ダルマについて知っていても、実践をしなければそれは絵に描いた餅にすぎない。

 われわれが瞑想をするのは、われわれの感情が乱されるからである。もし実践しなければ、乱れた感情が湧き起こり、われわれのなかにとどまるだろう。知識だけでは不十分なのだ。インドの偉大な聖人シャンティデーヴァは、ほかのパーツを等しく持つ車輪の中心と同様に、心はわれわれの存在の中心だと述べている。もしあなたが心に関する本質的な点を理解しないなら、たとえ幸福を望んだとしてもあなたはそれを手にすることができないだろう。

 

心の瞑想から得られるもの 

 多くのスートラや他のテキストは瞑想のよさを礼賛する。それらはすべておなじことを言っている。たとえ一日だけ瞑想をするのだとしても、何千年教えを聞いて分析するだけよりもはるかに益があることなのである。また、たとえ長い間、徳のある有益な活動をしていたとしても、わずかな間の瞑想にはかなわないのである。

それはほかの実践法が役に立たないとか、意味がないということではない。それどころかダルマの教えを聞き、聞いたことに意味について考えることはきわめて大きな益をもたらすのである。しかしながら瞑想の実践が、他の実践のもたらす益をはるかにしのぐのである。

 

質問 

質問:私は仕事が忙しくて、実践をする時間がないことに悩んできました。仕事にたいして憤りさえ覚えました。それは深刻な執着の問題です。どのようにしてやっていったらいいか、教えてください。

リンポチェ:あなたの悩みというのは、多くの人に馴染みがあるものですね。それは本当に瞑想と瞑想以外のこととのバランスの問題です。私はどこかに坐り、心に集中し、瞑想に入ります。もし長時間瞑想するつもりなら、忙しいか、あるいはほかにすることがある場合、早起きしてそれをおこなってください。こうして瞑想をつづけることができるのです。だれかと話しているとき、あるいは仕事をしているとき、よく気をつけて、ふだんの行動に注意を払うようになると、気が散って心があちこちにさまようということもなくなるでしょう。気づきの実践をおこなうことで、瞑想から瞑想後に移ることができます。そうすれば仕事と瞑想が対立することはありえないのです。

 もし私たちが瞑想と瞑想以外のことをうまく組み合わせなければ、瞑想と仕事は別々のものとなり、両者はいさかいを起こすことになるでしょう。瞑想をするときは仕事ができない、仕事をするときは瞑想ができない、と考えてしまうでしょう。しかしもしすべての活動において心の注意と非・散漫の実践をおこなえば、仕事と瞑想両者ともうまくいくはずです。実際、瞑想と瞑想以外のことは互いに刺激し合っているのです。生活において瞑想を実践していけばいくほど、瞑想はクッションの役割を果たすのです。よい瞑想体験は仕事にも反映されるのです。瞑想と瞑想以外のことは互いに助け合いをはじめます。ですから仕事から逃げ出さないといけないとか、仕事自体が、混乱した感情や粗暴になること、やる気のなさ、明晰さの欠如、移り気をおさえ、克服するための手段になるとは考えられないのです。

質問:ゾクチェンとマハームドラーとの違いについて教えていただけますか。

リンポチェ:このふたつの瞑想法の間には、伝授の仕方と技法(サンスクリットでupaya)に違いがあります。しかしもし正確に語ったなら、両者の間に違いがないことがわかります。両者とも心をあるがままに見る実践法なのです。

 ゾクチェンはサンスクリットでマハーサンディ(mahasandhi)と呼ばれ、大いなる完成とか大いなる円満を意味します。その系譜はガラブ・ドルジェにはじまり、シュリー・シンハに受け渡され、そこから「師・弟子」の連鎖がつづいていくのです。マハームドラーはサンスクリットで大いなるシンボルとか大印という意味です。その系譜はサラハにはじまり、ナーガールジュナに伝えられ、そこからシャワリ、さらにさまざまな人へとつながれていきました。ゾクチェンの系譜がチベットにもたらされたこととニンマ派の系譜には深い関係があります。一方でマハームドラーはカギュ派の系譜、すなわちマルパやミラレパ、ガムポパらと関係があるのです。

 ゾクチェンとマハームドラーはともに心の瞑想の技法です。カギュ派では、「すべての考えはダルマカヤである」と言います。グルは心の本性をわれわれに示すことができます。マハームドラーではそのことに関して瞑想するのです。ゾクチェンにおいては、心(セム)と明知(リグパ)との相違を明確にします。リグパは知ることと認識することとを、つまり本性を理解することを内包しています。セムはまた、本性を認識していないことを内包しているのです。ゾクチェンの技術や方法とは、リグパからセムを分け隔てることであり、セムは心の本性ではなく、リグパ、すなわち知ること、あるいは原初の心に近づくことなのです。

 カルマパ3世ランジュン・ドルジェは、『マハームドラーの祈り』のなかでつぎのような詩を詠みました。

それは存在しない 

勝利を得た者でさえ見たことがない 

非存在というわけではない 

というのもそれはサムサーラ(輪廻)とニルヴァーナ(涅槃)の基礎なのだから 

これは矛盾ではない 

なぜならこれは中道の統一なのだから 

心の本性を理解できないものだろうか 

それはあらゆる限界や極端から解き放たれているはず 

 同様に、ジグメ・リンパは『ゾクチェンのための祈り』のなかでつぎのように詩を詠んでいます。

それは存在しない 

勝者でさえもが見たことがない 

非・存在というわけではない 

すべてのサムサーラとニルヴァーナの基礎なのだから 

これは矛盾なのではない 

これは中道の統一なのだから 

ゾクチェンの本質を理解できれば 

 このように、マハームドラーとゾクチェンの間には、ほとんど違いがないのです。

 カルマパ3世が偉大なるニンマ派の師ロンチェンパの師匠であったことは明記すべきでしょう。彼はまたカギュ派の教えを書いた『カルマ・ニンティク』の著者でもあります。ニンティクといえばゾクチェンの教えの重要な一コマです。ですからカルマパ3世はマハームドラーの教えの著者であるだけでなく、ゾクチェンの教えの著者でもあるということになるのです。