マト僧院について ジャムヤン・ギャルツェン 宮本神酒男訳 

Mangtro monastery mang spro dgon pa

 

 ラダックには星の数ほどのチベット仏教の寺院があるが、マント・ゴンパ(マト僧院)には二つの目立つ点がある。一つは、ラダックにおいて唯一のサキャ派の僧院であること。二つは、奇祭といわれるナグラン儀礼の際、ロンツェン・カルマル神が憑依した二人のシャーマン僧が託宣を述べることである。

 トゥブテン・シャリン・チューコル(Thub bstan sha gling chos ’khor)という名でも知られるマント・ゴンパは、チベットの端から端まで、相当長い距離を旅してラダックに到着したサキャ派の学者ドルジェ・パルサン(rDo rje dPal bzang)によって、1410年に創建された。

 彼は現在僧院が立つ丘の洞窟に住み、修行した。その瞑想能力と聖人らしさは時のラダック国王ドラグスパ(Grags pa ’Bum lde 14001440)に認められた。国王は彼に、近く(108のストゥーパを)ティシル(Ti’u ser ru)に建設するので、清めの儀礼を行うよう依頼した。*ティシル、テウシルあるいはリウシルは、チベット語でレ(gle)と呼ばれる場所にあった。レとは川の中の小島(あるいは川と川の間の土地)を意味する。この古代ダルド人の墓地と考えられる場所はテウ・タシ・ウー・トあるいはリウ・タシ・ウー・ト(ri’u bkra shis ’od ’phro)と呼ばれる。

 儀礼を無事におこなったお礼として、国王はドルジェ・パルサンに大きな土地を賜った。ここに彼は地元の人々の利益のために僧院を建てることにした。のちにはもっと大きな土地を下賜され、ブッダの教えの研究と普及のために僧院を拡充し、施設も充実させた。

 

場所の選定 

 ある朝の夜明け、現在僧院が立つ場所に岩があり、その上に鹿が寝そべっていた。これはブッダが最初に説法をしたヴァラナシの鹿苑とむすびつけて考えられ、僧院を建てるいい前兆とみなされた。それゆえこの僧院は、トゥブテン・シャリン・チューコルと名づけられた。

 僧侶(ドルジェ・パルサン)は、さらなる土地を求めた。そしてチェムレ、サクティ、マルツェラン、スタクナ、ストク、ギャ、ルムツェ、チャマタン、ケサル、ティリ、スキドマン、そしてスピティが付加され、僧院を維持管理するために70戸の家族がつけられた。

 ドルジェ・パルサンを継いだのは、以下の通り。トゥンパ・ロトゥ、トゥンパ・ソトツァス、ケンチェン・ロトゥ・ギャツォ、トゥンパ・カムポ、トゥンパ・シェラブ・レグスパ、トゥンパ・ギャツォ、トゥンパ・クンガ・ギェルツェン。

 この最後のトゥンパ・クンガ・ギェルツェンは、国王ジャムヤン・ナムギェルと僧院の僧侶全員を殲滅したアリ・ミールが率いるバルチスタン軍によって殺された。僧院のものはすべて根こそぎ持っていかれた。クンガ・ギェルツェンの遺体はラルン・シルモに埋葬された。

 700人が囚われの身となり、長い時間ののち、戻ってきたのはわずか10人だった。このようにマント・ゴンパは僧侶不足になり、もともと国王に下賜された土地は没収されてしまった。

 必死の抵抗むなしく、マント村が軍隊に侵攻されたとき、マント僧院自体も凌辱されてしまった。国王がようやく監獄から解放されたとき、偶然もうひとりのサキャ派ラマ、チョスキ・ロトス(チューキ・ロトゥ)が到着した。僧院の危難を救うためにやってきたのである。

 侵略者と戦っている間、僧院は国王に返されていたので、国王は喜んで土地を戻し、さらにはもっと広大な土地を下賜した。チョスキ・ロトスは僧院を刷新し、活発な活動を再開させた。こうして僧院は依然よりもむしろ大きくなった。

 長い年月の間、マント・ゴンパの浮き沈みは激しかった。しかしロンツェン・カルマルとして知られる僧院の特別な守護神の託宣僧が刷新される毎年恒例の祭礼は、ドルジェ・パルサンの時代から変わらなかった。このふたりの守護神は、ロンツェン・カワカポという東チベットの聖なる場所で、グル・パドマサンバヴァ(チベットにタントラ仏教をもたらした密教僧)によって認定され、祝福された。ロンツェン・カワカポはタントラの神チャクラサムバラと関係があり、ドルジェ・パルサンのあとをついて東チベットからはるばるやってきた。ドルジェ・パルサンははじめて彼らと会ったとき、特別な食べ物を献じたという。

 チベット暦の最初の月(2月か3月)に祭礼の重要な部分が行われる。チベット暦の1月7日から13日にかけて開かれるのは、タントラの神ヘーヴァジュラの特別な祭礼である。彼らはトランス状態に入り、託宣僧となる。祭礼期間中、ラダックのすべての地域から人々がやってきて、託宣僧に伺いをたてる。

 現在、僧院は新旧二つの本堂('du khang)、仏典すべてを蔵する書庫堂(dpe mdzod)、サキャ派の特別な教えであるラムデ(道果)に敬意を表した学堂(lam 'bras lha khang)、護法神が鎮座する二つの神殿などから成り立っていた。ゴンカン(mgon khang 護法神殿)には女性が入れないことは注記しておかねばならない。

 僧院の下には聖なる洞窟がある。ゴンパの創健者はここに隠棲したといわれる。洞窟のなかにはドルジェ・パルサン自身が作った小さなストゥーパがある。これに加えて、狭い通路があり、そこには護法神のペルデン・ラモ(シュリー・デーヴィー)の像がある。この像はまるで岩から立ち上がってくるかのように見える。女神自身ははっきりとしているが、彼女が乗っているラバとそばにいる5人の従者の姿はおぼろげである。

 1970年には大きなホールが建てられた。この大講堂はナグラン祭のときの安居(dbyar gnas)や講義など多目的に使用される。中庭は拡張せざるをえなくなった。というのもナグラン祭のとき、あまりにもたくさんの人がやってきてしまい、収容しきれなくなってしまったからである。

 このゴンパに所属するすべての僧侶はチベットのサキャやンゴルに行って、仏教哲学や伝統を学ぶことができる。それからラダックに戻ってきて、この二つの宗教センターで学んだ通りに儀礼をおこない、瞑想を実践する。このようにして、ゴンパでおこなわれる儀礼や祈祷は、チベットで守られてきた古い伝統そのままにつづけられるのである。

 昔とおなじように、過去の偉大なラマたちの周年祭や、生きている人々の健康や繁栄の祈り、最近亡くなった人々のよい転生のために、毎年恒例の儀礼がおこなわれる。

 また毎年1月の7日から15日にかけて、ブッダの奇跡の日が祝われる。7日間、ヘーヴァジュラの儀礼がおこなわれるが、それにはチャム(宗教舞踏)が含まれる。

この時期、もっとも重要なのは、ふたりの護法神(託宣僧)によって表される毎年の宣託である。この託宣僧は、僧院が創建されたときからつねにここを守ってきたのである。