媽祖物語 宮本神酒男 編

 

1 林黙(リンムー)の誕生

 宋の建隆元年(960年)旧暦三月二十三日夜、蒲田の眉洲島の林願家に女の子が誕生した。生まれたときからまったく泣かなかったので、父親は「黙娘(ムーニャン)」と名づけた。黙娘の出生は不思議な伝説に彩られていた。*正確な字は、蒲は草カンムリに甫、眉はサンズイに眉に置き換えたもの。

 ある日観音菩薩は竜女と善財童子をつれて王母娘々(ニャンニャン)の蟠桃盛会に参加したあと、祥雲に乗って普陀山へ向かった。道すがら彼らは眉洲島を通りかかり、海面から黒い雲が天に向かって立ち昇っているのが見えた。

 先頭を走っていた竜女が雲層の窓を開けると、眉洲湾の海上で何艘かの漁船が激しく揺られ、沈んでいくのを目の当たりにした。あまたの漁師があくどい波に揉まれ、海の怪物たちが死体を取り合っていた。海岸には女たちや子どもたちが、父、兄の名を呼んでいた。あるいは夫や弟の名を呼んでいた。見るも忍びないほど悲惨な光景だった。

 観音菩薩は指を折って海の妖怪たちの数を数えた。この妖怪たちが風を起こし、波をたてるのだ。しかし彼女(観音菩薩)は竜女に原因を語らなかった。最後に竜女は我慢できなくなって、観音にお願いした。

「これらの妖怪は人間たちを苦しめています。それらを退治できないため、このひどいありさまになっていると思われます。どうか大発慈悲の観音さま、衆生をお救いください」

 観音はそれを聞いて微笑まれた。

「竜女よ、これも天の定めであるぞ。早くに師が主張したとおりである。そなたは気にしなくてよい。洞府に戻ったあと、自然に明白になるであろう」

 洞府に戻った観音は、絶えることのない参拝者の列を眺めた。そのなかに富者の姿があったが、それは眉洲島の林願だった。夫人をつれて観音閣にお参りに来ていたのだ。観音ら三人は、さっそく化身して定位置につき、参拝者のお香や火を受け入れた。林夫人は信心深そうに香をともし、観音菩薩に向かって切に願いごとを唱えた。

「大慈大悲なる観音菩薩さま、わが林家には一男五女を賜りましたが、男児ひとりでは一族が衰えてしまいます。なにとぞふたたび男児を賜りますようお願いいたします。伏してお願いし、観音さまのご加護をお待ちしています。望みどおり実現しますように」

 しばらくして参拝者が減ると、観音は竜女に言った。

「賢明なる竜女よ、後日、この者の家に投胎するがいい。というのは、ひとつには、そなたと結縁があるから。ふたつには、そなたなら妖魔を滅ぼすことができるからである」

 竜女は観音のことばを聞くと、ただちに人間の世界に降りなければならなかったが、いささかとまどいもあった。いくつか観音に質問しようとしたとき、観音はとどめた。

「これは天意であるぞ。細かいことはいいであろう。さ、行け」

 竜女は観音にいとまごいをし、善財童子とともに観音閣を出て行った。竜女は善財童子に言った。

「師父は私に地上に降りて妖魔を殲滅せよとおっしゃる。しかし地上では私は普通の人になってしまうので、とうていそんなことが成し遂げられるとは思えない」

「安心してくださいませ。私も地上に降りて手助けしますから」

 竜女はそれを聞いて感動し、善財童子とひとまず別れた。

 さて林夫人は観音閣に詣でたあと、からだにだるさを感じ、偏食をするようになり、時ならず嘔吐感を覚えた。林願が医者に見せたところ、夫人は妊娠しているということだった。家族の憂いは喜びに転じた。

 光陰矢の如し、日月は杼(ひ)の如し。林夫人の分娩の時がやってきた。林氏の邸宅は上も下も大騒ぎとなった。だれもが夫人が貴公子を産むものと期待していた。

 そのとき突然大音響が鳴り響いた。一本の赤い光線が走り、林氏の邸宅を赤く照らし出した。同時に林夫人は女の子を産んだ。

 林願は生まれたのが女の子だと聞いて、悶々とした。近隣の人々は大音響を聞いて、山が崩れ、地が裂けたのだと思った。みな家から飛び出て、まわりを見た。林氏の邸宅の上空に金星が輝き、赤い光が射していたので、火事だと思い、みな駆けつけてなかの人を救出しようとした。

 林氏邸の前に着くと、えもいわれぬさわやかな香りが鼻をついた。火の粉が香るのだろうか。彼らは林夫人が女の子を産んだことを聞いた。そこでつぎからつぎへと、林氏に喜びのことばを贈った。

 夫人が産んだ赤子は、林家の六番目の女の子だった。このこと自体たいへんな失望だったが、さらに生れ落ちてから一月めの満月の晩になってもまったく泣かないことが、失望を倍加させた。林願はなにか悪いものでも生まれたかのように思い、子を遺棄しようと決意した。

 ある日林願は、夫人の目を盗んで赤子を抱いて外に出た。静かな丘でまさに赤子を捨てようというとき、ひとりの道士が現れ、叫んだ。

「罪なり! 罪なり! 愚かなることすべからず!」

 林願はそれを聞いて心の中で思った。

「この道士は何の話をしているのだろうか」

 彼は道士にたずねた。

「師父よ、あなたは何をおっしゃっているのでしょうか」

「この子に何の罪があるというのか。なぜこの子を捨てようとしているのか」

「この子は生まれて一月になるというのに、泣きも喚きもしないのです。この子には不吉なしるしが現れているのではないでしょうか。我が家に災いをもたらすにちがいありません」

「禍福に門などありませんぞ。それは人自らが招くものなのです。泣きも喚きもしない、それはこの子の心を語っているのです」

「師父よ、もし赤子が泣いたら、私は家に連れて帰って大事に育てましょう。もし泣かなかったら、あなたさまに連れて行っていただきたい」

「よかろう」と道士は言って前に出た。そして赤子の耳に何か声をかけると、突然赤子はワーワーと泣き始めた。林願はおどろき、また喜んだ。彼は道士の名を聞こうと思い、声をかけようと顔を上げると、その姿はすでにどこにもなかった。

 聞くところによると、その道士は善財童子の化身だったという。

 

つづく ⇒ 2 井戸の中の無字天書