媽祖物語 宮本神酒男 編訳

 

2 井戸の中の無字天書

 林黙は十六歳になった。立ち居振る舞いはきちんとして、たおやかなうえ、頭もよかった。心は善良で、人を助けるのがなによりも好きだった。

 漁船が岸に着くたびに、彼女は駆けつけ、魚を運び上げ、水をかけた。その様子を見て人々は親しみをこめて黙娘(モーニャン)と呼んだ。

 あるとき、数隻の漁船が海原に出てまもなく、雲行きが突然あやしくなったかと思うと、一陣の狂風が吹いて巨大な波を起こし、漁船を打ち砕いた。あわれにも数十の命は海の藻屑となってしまった。

 湄洲島という標記のついた舵が島の浜辺に漂着し、犠牲者の家族は自分たちの船が難破したことを認識し、死ぬほど号泣した。

 黙娘はその情景を見て、耐え難く思った。彼女はひそかに天に向かって誓いを立てた。もし風浪を制御することができ、ふるさとの漁民の人々を助けることができるなら、寿命が三十年縮まってもいいと。

 このとき以来、彼女は毎日海辺に出て、精神を集中して天空を観察した。一日、二日、一ヶ月、二ヶ月……、このようにいくつもの春秋が過ぎていった。

 ある日、暴風雨が吹き荒れるなか、黙娘はひとり海辺に立っていた。雨が彼女の服を濡らし、海の風が髪を振り乱した。それでも彼女は動かず、海のかなたの天空を凝視した。

 このとき普陀山の観音菩薩はかすかに目をあけ、黙娘が求めていることを知っていたので、善財を呼び、玄機(玄妙な道理)を授けた。善財は観音菩薩の法旨を理解し、老道士に化けて黙娘の近くに現れた。

「おまえはどこの娘だ? なぜひとりここに立ち、風雨に打たれるがままにしておるのじゃ」

「私は天を観察しているのです。この風雨のなか、漁に出た村の人たちが無事でいられるようお祈りしているのです」

「おお、なんという菩薩の心よ。それはさほどむつかしいことではないぞ。根気さえあれば、妙法を会得することができよう」

「どんな妙法でしょうか。どうかお教えください。女の身ではありますが、それを会得したいと思います」

「よろしい。いにしえの人も言うたぞ、誠実のいたるところ、金石開く、と。もしそなたにその心があるなら、毎日観音閣の前の井戸に来て『観音経』を唱えるがよい。七七四十 九日ののち、おのずから明らかになるであろう」

 そういい終わると、老道士は身を翻し、飄然と去っていった。

 黙娘は指示に従い、強烈な風雨にもめげず、激しい日射しにも負けず、ひたすら井戸に向かって観音経を唱えた。善財は黙娘を助けるため、ときおり彼女の前に現れた。

 黙娘を試すため、あるときはひとりの聡明な少年に化けた。彼女のそばで遊び戯れたが、黙娘は頭をあげず、横目で見ただけだった。あるときは蛇蝎の類に化けて現れたが、彼女の心は平静のままだった。このように黙娘は井戸のそばに坐り、四十九日過ごした。

 四十九日の最後の日、五人姉妹がやってきて黙娘を見守った。しばらくして突然彼女は小さな声で言った。

「来た!」

 そのとき井戸のなかで金色の光がきらめき、一筋の青い煙が井戸の口に昇ってきた。姉妹はワッと叫ぶと地に倒れ伏した。黙娘は取り乱すことなく、両目を見開いた。すると井戸の底から黒い亀が浮かび上がってきた。亀の甲羅には金書が載っていた。

 黙娘はそれを手にとって中を見たが、何も書かれていなかった。いぶかしく思っていると、忽然と面前にあの老道士が現れ、ほほえみながら言った。

「あやしく思うのも無理はない。これは無字天書と呼ばれるものであるぞ。そなたが真心から欲したので、天が賜ったもの。もしこの先困難に遭ったら、香を焚いて坐り、口に観音経を唱えなさい。そのときにこの無字天書を見るのだ」

 林黙はそう聞いてうれしく思った。彼女は天書を掲げ、前に出てうやうやしく礼をしたあと、感謝のことばを述べた。

 そのとき突然一陣の風が過ぎた。彼女が頭をあげたときには、老道士の姿は消えていた。ただ中空に彩雲があり、南の空に向かって飄々と流れていくのが見えた。

 このとき黙娘は五人姉妹に取り囲まれていた。一番下の妹らしき少女は、文字のない本を見て、不思議そうに尋ねた。

「この本にはひとつも字がないけど、どうしてなの」

 黙娘はこたえず、ただ笑うばかりだった。五人姉妹といっしょに彼女は家に帰った。

 もともとこの無字天書というのは、真伝玄微妙法である。これよりのち林黙は研鑽を重ね、奥義を知り尽くしたあと、海上の気候変化を、占いをせずとも予知することができるようになった。暴風雨が来る前に、彼女はそのことを島の人々に知らせ、海難に遭わないように努めるようになった。

つづく ⇒ 3 火傷をしない媽祖