ミケロの旅日記 独竜江ふたたび

2011年7月12日 怒江(サルウィン川)上流 丙中洛

 15年前、貢山から車で丙中洛(ビンゾンロ)を通り、さらに北へ進むと、平地の向こうに現れた二つの山の連なりが、ちょうど巨大な門のように見えた。この門を抜けると、夢のような不思議な国、シャンバラのようなところへ通じているのではないかとわくわくしたものだ。
*案内表示を見ると、丙中洛からすこし山に入ったところに「シャンバラ宮址」というのがあった。シャンバラはここにあったのか? 残念ながら今回ここを訪ねることはできなかった。

 実際は山の向こうにあるのはチベット自治区であり、察瓦竜(ツァワロン)という小さな町のはずだった。のちに知り合った米国人が歩いてツァワロンにたどりついたと話していたのを聞いて、いつかは自分も、できれば独竜江から歩いてそこをめざしたいと考えた。

 
怒江の第一湾。乾季と雨季では川面の色が違う。また半島のビニール栽培が景観を損ねている。(右は15年前)

 一日時間があいたので、われわれ(私とH夫妻)はタクシーで丙中洛へ行ってみることにした。一時間半ほど行くと、第一湾と呼ばれるU字型の湾曲部分があった。すべての観光客が納得するにちがいない絶景ポイントである。15年前もここを訪ね、感嘆したことを思い出した。しかし当時は雨季がはじまる前だったので怒江の川面がパステル・グリーンだったのにたいし、いまは味も素っ気もない泥の色だ。

 丙中洛はそこそこ町の体を成していた。15年前の記憶はほとんどないけれど、かろうじて村があるという認識をもった程度だったと思う。現在はしゃれたアクセサリー店があり、その奥にカフェと呼んでもいい茶室があった。なかではWi-Fiが使えるようで、何人かの若い旅のブロガーたちがパソコンに必死で書き込んでいた。

 メニューに味見したくなるような高級茶などがあり、どれにしようかと迷っていると、ブロガーのひとりである自信が表情に満ち溢れた美女が颯爽と近づいてきて、「メイ・アイ・ヘルプ・ユー?」と聞いてきたのである。たぶん中国に慣れない外国人客たちとみて、親切心で申し出たのだろう。彼女はどう見ても上海あたりからやってきた都会の旅行者だった。

隔世の感を強くもった。15年前、いや25年前、はじめて上海を訪ねたときは、はげしいカルチャー・ショックを受けたものだ。町のなかは昼間でもどんよりと薄暗く、人民服を着て人民帽を被った無表情の群集が仕事もないのかただぼんやりと南京路を歩いていた。上海の変わりようはいうまでもないけれど、こんな僻地にも都会からツーリストがやってきて、旅のブログを旅先で更新できるのだ。時空間がつながっているというのが信じられなかった。

 普化寺を訪ねることにした。丙中洛から車で10分ほどの丘の上にある。15年前は狸の化け物が出てきそうな廃墟目前の破れ寺だった。その荒れ果てた雰囲気がかえって風雅な感じを出していた。どういう系統の寺なのか事前に知らなかったのだが、ランジュン・ドルジェ(12841339)などカルマパの画像が描かれていたので、それがカギュ・カルマ派に属することがわかったのである。チベットの寺院を見てきた者にとって、木造寺院というのは斬新だった。

 
15年前の普化寺。建物はかなり痛んでいた。紅帽カルマ派歴代活仏の像が描かれていた。

 普化寺はこぢんまりとしているが、落ち着いた、味わいのある寺だった。リメイクされたのだろうけど、あたかも百年前からこんなふうであったかのように見えた。年末にはここでチャム(宗教舞踏)も行われるという。活仏もいるというので、またあらためて出直したいと思った。

 
現在の普化寺。こぎれいで趣味のいい寺になった。右は本尊の仏像。

 調べてみると、雲南には現在13座ものカルマ派の寺院が残っている。それは麗江の五大寺である福国寺、指雲寺、文峰寺、玉峰寺、普済寺のほか、巨甸の興化寺、魯甸の霊照寺、塔城の達来寺、維西の達摩寺や寿国寺、それにこの普化寺を加えた13座である。それらの宗主寺はカム地方デルゲ(四川省徳格県)のパルプン寺だった。シトゥ活仏をかかげるパルプン寺は、リメ運動(超宗派)を興したコントゥル・リンポチェ(18131899)を輩出したカルマ派の寺院だ。このなかでは普化寺の建立がもっとも遅く、18世紀にもととなる寺院が建てられたが、普化寺として再建されたのは19世紀に入ってからのことだった。

 なぜ雲南にカルマ派の寺が多いかというと、それはゲルク派との勢力争いに破れ、麗江(ジャン・サタム)の王・木氏のサポートによってチベットの周辺に活路を見出したからだといえる。カルマ派と木氏との関係は古く、紅帽カルマ派二世カジョ・ワンポの弟子チュンペ・イェシェが派遣したチメパが(ややこしくてすいません)木氏の国師となったことにはじまる。そして紅帽カルマ派六世のアンプル・チューキ・ワンチュクは木氏に招かれ、ギェルタン(旧中甸、現シャングリラ県)で自らチベット大蔵経(カンギュル)の編纂という大事業に取り組んだのだった。これは1620年代のことである。

  普化寺の色使いはセンスがいい。

 ちなみにこの麗江版カンギュルは1698年頃に雲南に侵攻したモンゴル軍の大将ダル・ギェルポ・ショクト汗(グシ汗の孫)によって持ち去られ、ゲルク派の理塘(リタン)寺に置かれて以来、リタン版大蔵経と呼ばれるようになった。当時ダライラマ五世(厳密には物故していた)とモンゴル軍は一体化して勢力拡大をはかっていたのだが、それにしてもこの紅帽カルマ派の血と汗と涙の結晶を奪い取ってしまったのは、納得のいかないことではある。紅帽カルマ派はグルカ戦争でグルカ側に味方して以来その力を失ってしまうので、ゲルク派が所蔵したほうがよかったともいえるのだが、それはまあ、結果論だろう。

 黒帽カルマ派も雲南との関係は深かった。1600年頃にはタイシトゥ活仏チューキ・ギェルツェンが麗江に招かれているし、その半世紀後には、黒帽カルマ派十世チューイン・ドルジェがグシ汗のモンゴル軍の侵攻を受けていわばこの地に亡命してきたのである。

 1720年代は時代が大きく変化した時期だった。清が強大化し、モンゴルとチベットが勢いを失ったのもこの頃のことである。モンゴルの多くは清の一部となり、チベットは清の属国となった。1723年の改土帰流によって清は支配力を強め、実質上ナシ国の王だった木氏は土司となり、力を急速に失っていく。ゲルク派が衰弱したことはカルマ派にはプラスの面もあった。黒帽カルマ派が雲南に多くの寺院を建立したのは改土帰流以降のことだったのである。

 
神社猫ならぬ寺院猫。聖なる場所かどうかなんて知らニャンってとこか。チベットで見かける猫はほとんどこの色と柄だ。

 天主堂の門の鍵がかかっていて、その持ち主が不在であったため、なかに入ることができなかった。キリスト教(プロテスタントとカトリック)についてはいろいろと語りたいことがあるけれど、別の機会にしたい。

 われわれのタクシーは天主堂の前を通り過ぎて、チュナトン(秋那桶)まで行こうと考えた。たしか15年前もチュナトンを訪ねたと思う。ところが手前のチェックポイントで通行を拒絶されたのである。その公安に尋ねると、「チベット自治区が近いので外国人を通すわけにはいかない」という答えが返ってきた。中国人のふりをすればよかったのだろうけれど、まさか拒絶されるとは思わなかったので、「われわれは観光に訪れた日本人だ」といってしまったのだ。迂闊だった! チベット自治区との境界ならともかく、それよりずっと手前のチュナトンになぜ行くことができないのか。中国が理不尽の国であることは重々承知していたのだから、自分のミスである。

 こんなところで引っかかってしまうのに、ミャンマーに越境などできるわけがないではないか、と私はひとりごちた。