ミケロの旅日記 独竜江ふたたび

2011年7月13日 高黎貢山越え 絶景に驚く

高黎貢山の峠道から見下ろした湿地帯。

 日本の山あいの温泉街のように、貢山も狭い山にはさまれた峡谷に発達した町だ。だから一本の道が背骨のように町の中を通っている。道を下っていった先は怒江である。その背骨道の一番上の路上に朝、フロント・ガラスに「独竜江」と書かれた紙が貼られた何台かのトラック・タクシーが停まっていた。トラック・タクシーというのは、一見するとトラックだが、運転席・助手席の後ろに一列の座席があり、数人の乗客が乗れるようになっている日本には存在しない輸送トラック兼乗り合いタクシーだった。

 10時にトラック・タクシーは出発した。エンジンがかかった瞬間あのリアルな夢を思い出した。貢山から独竜江へ行く道は、もしかするとあの夢の中の道のように危ない道なのではないか。

 対向車とすれ違うとき、ハンドル操作を誤り、トラックの車輪がはみ出て、奈落の底に落ちる。ああああ……と叫びながら。

はっと我に帰る。まだ出発したばかりで道は森の中を走っている。検問所にしばらく停まる。一時間ほど舗装道を進んだあと、道の状態は悪くなり、崖道が続くようになった。雨季のまっただなかなので、いたるところで道が壊れていた。夢の中のように車が猛スピードで走ることはできないが、対向車とすれちがうときはいつもひやひやさせられ、上から土砂が落ちてくる恐怖とも戦わなければならなかった。

 

 15年前は、はじまったばかりのバイパス道路建設を横目で見ながら高黎貢山(カオリーゴンシャン)の中に入っていった。荷物は駄馬に載せ、カメラだけを持って歩き始めた。いくつかの荷物運搬グループが隊商のようにグループを作り、山越えをともにした。そのうちのひとつに自分たちのバックパックを預けたのである。

「高尾山あたりの登山とあまり変わらないなあ」と最初は気楽に考えていたが、山道は登りの連続だった。動植物の豊富さに酔いしれ、疲れが癒された。この自然のすばらしさによってのちには世界遺産に指定されるのだった。しかし次第に疲労が蓄積し、早く今日の宿泊地点に着きたい一心で一歩一歩進んでいった。

 宿、といっても粗末な小屋なのだが、たどり着いた瞬間、荷を降ろした馬たちはひっくりかえって背中を地面にこすりつけた。自分もおなじようなことをしたいとふと思った。

 二日目、森を抜けたところで黄色い小鳥の影を見た。手にのるほどの小さな太陽鳥という鳥だった。しっかり見たわけでもないのに、その残影はいまも残っている。

宿営地点は海抜3千メートルを超え、周囲の風景はヒマラヤのどこかのようだった。緑の濃さはカシミールの森のようだった。渓谷の苔のあいまを貫く水に触れると、指がつんと痛かった。

 三日目、海抜3600mの峠は深い雪に覆われていた。童心にかえってみなで雪合戦をした。雪に足を突っ込むと膝まで埋まった。峠を越えると下りが多くなった。ガイドを兼ねていた旅遊局のT君は、ゴールが近づいて安心したのか、はしゃいで森や藪にピストルを撃ちまくった。蛇が前を横切ると頭を狙って撃ったがはずし、ネズミがひょっこり現れると狙ってみごとに射止めた。われわれは枯葉を集めて焚き火を起こし、獲物を焼いて各自に分配した。山ネズミなので食あたりを起こす心配はなかった。

15年前はこの山の上あたりを歩いた。

 あれから15年もたってしまったなんて信じられない。歩いた山道といまトラック・タクシーが走っているバイパス道は何キロも離れているので、記憶が重なることはない。補修工事が行われていたり、倒木が道をふさいだり、対向車のトラックが車輪を踏み外したりしたため、予定を何時間も超過してしまった。

いたるところで道が崩れ、修復されている。

道が倒木にふさがれた。除去されるまで30分待たされた。

 海抜3200mの峠道あたりの風景はすばらしかった。眼下に広がる湿地帯は魂を揺さぶるような訴求力をもっていた。この風景はずっと守られていくだろうか。世界遺産に登録されたからにはここにホテルを建設するなんてことはないだろうと思うが、中国のことなのですこし心配だ……。

 独竜江村に着いたのは日が暮れてから何時間もたっていた。出発してから独竜江到着まで11時間も要したのである。独竜江は暗渠のようにしか見えなかった。この細くて流れの速い川がミャンマーに入るとマリカと名前を変え、ミッチーナの上のあたりで他の支流と合流してエーヤワディー川(イラワジ川)となるのだった。私はミッチーナやマンダレーの河岸のレストランで川を眺めながら食事を取ったことがあった。エーヤワディー川の支流のひとつはヤンゴンからアラビア海に注いでいた。この15年のあいだに私は独竜江―エーヤワディー川にすっかり慣れ親しむようになっていた。