ミケロの旅日記
7月23日 崖崩れを友とす

道路の痕跡が消えるほどの崖崩れ。遠くにクレーン車が見える。

 巴坡村でトラジの助手席に乗り、一時間ほど揺られてウトウトしていると、突然重力に押され、ギアに体がのっかかった。急ブレーキがかかったのだ。目の前には大規模な土砂崩れが起こったばかりで、道路の痕跡すらわからなくなっていた。トラジはトラクターのことだが、この地域ではトラクターを改造してトラック風に仕立てた運搬車のことをいった。居心地は悪かったものの、交通手段が得られ、しかも助手席に座ることができたので、それなりに私は満足していた。孔当までの3時間、激しい揺れを我慢すればよかった。しかし道路が遮断された今、あきらめてほかの方法を探るしかない。

トラジが居心地のいい乗り物とは到底言えない。

 トラジの荷台には若いミャンマー人が9人ほど乗っていた。そのリーダーは唯一の年長者で、数日前に訪ねた家のイケメンの主人だった。家の中と外で、あるいは母国内か外国かで、または着ているものの違い(ロンジーをはいているかどうか)で、まるで別人のように見えた。

「迂回路を探しましょう」と彼は提案するなり、山の中の小道へずんずんと入っていった。ほかのミャンマー人とわれわれもつづいて深い森の中へ入った。いつのまのか私が先頭に立っていた。トウモロコシが植えられた狭い畑地に出た。そこからの道らしきものがなく、気づくと崖の上に出ていた。道などそもそもなかったのだ。私は先頭をミャンマー人たちに譲り、彼らにつづいて道なき道を進んだ。

 道なきというのは比喩ではなく、本当に道のない、しかも立てないほどの急勾配の藪の中に入った。木の根や蔓、草、竹、石、そういったあらゆるものをつかみながら、また足場にしながら斜面をあがっていった。樹皮や枝は苔や粘液質のなにかに覆われていたが、かまわずにつかんだり支えにしたりした。ときには腐植土といっしょに数メートルずり落ちた。ルートを取り損ね、元の地点にもどってくることもしばしばだった。ここにはだれも来たことがなく、道もないのだから仕方がないだろう。こんな調子で、直線距離で50メートルしか離れていない地点に到達するのに一時間近くもかかってしまった。

道路の修復のために一時間待たされることも。

 今回の独竜江踏査で、雨季のまっただなかであったこともあり、あちこちで崖崩れに遭遇した。この三日後に竜元から迪政当(ディツェンダン)までの10キロを歩きながらカウントしたのだが、崖崩れは20か所にも及んでいた。そのなかで崩れかかって積み重なった岩の上を恐る恐る渡ったのは3か所だった。この数年、とくにインド北西部では何度も崖崩れに遭遇している。崖崩れの地域を二日間かけて歩いて渡ったこともあれば、最終的にインド陸軍のヘリコプターに救出されたこともあった。私にとって崖崩れはつきあいたくないけど仕方なくつきあっている悪しき友人のようなものだった。

 15年前に独竜江に来たときは、一度も崖崩れに遭遇することはなかった。そもそも当時、車道はなく、当然独竜江地域には一台の車もなかった。現在ある道路はすべて山を削って造ったものであり、崩れやすいのは当然のことだった。当時の旅は車道がないため、すさまじいものになった。暴風雨のなか朽ちた吊り橋を渡り、増水して水没した河原(というより川の激流のなか)を歩かねばならなかった。

 電気がついたのは、巴坡村とその南だけだった。馬庫に小さな水力発電所が建設されていたからだ。独竜江の中上流はドルレアン王子の時代とおなじく暗闇の世界だった。

 15年前、巴坡村から遡上していくと、ケーブルを見かけることがあった。電気が通っているのかと思ったら、それは電話ケーブルだった。電話機らしきものを見ると、それはわれわれのよく知っているダイアル式ではなくて、モールス信号を送るようにトントンとたたいて信号を送るシステムの旧式の電話だった。これでは糸電話で話をするようなものだ。それにたいし現在は、ほとんどの人が携帯を持っている。ただしなかなか電波が届かないようではあるけれど。