(2)クレンの姉 

 迪政当(ディツェンタン)村もまたごく普通の村になっていた。つまり共産党支部や村の委員会が入った行政の建物とコンクリで固めた庭があった。はじめそこから先に進んで旅社を探した。砂利道のわきに売店があったので、スプライト(雪碧)を買った。喉がかわいて水分がほしくてたまらなかったのだ。しかしそれはあきらかに偽物だった。中国にはいまだにこんなまがい物が流通しているのだ。期待したぶん、まずくて毒っぽい気がした。砂糖水として買ったなら、それなりに満足したであろうに。

 旅社らしい建物が見つからず、われわれは疲労している体を鞭打って歩き続けた。人家がなくなるあたりから前方を見ると、山の斜面が大規模に崩れていて、道路が不通になっていることが認識できた。復旧まで数日はかかるだろう。その向こうに熊当(ションタン)村があるのだ。そこにナムサ(シャーマン)のクレンがいたのだ。クレンはとても小柄な女性だったが、霊的能力にすぐれ、大ナムサと呼ばれていた。

すでに述べたようにミャンマー側の「ピグミー」タロン族は独竜江上流から百数十年前に移住してきたということだった。そのことを知ったとき脳裡に浮かんだのは小柄なクレンだった。本当にピグミーはここから来たのか。熊当やそこから先の村を調べれば何かがつかめるのではないかと思ったけれど、残念ながら今回は迪政当より先に進むことはできないだろう。

 広大なトウモロコシ畑のなかに民家と区別がつかない木造の旅社があった。しかし意外なことに部屋はうまっていた。離れの客間(客間といっても民家の囲炉裏がある厨房を兼ねた部屋)で私服の公安たちとトウモロコシやイモを食べてすごした。彼らはランドクルーザーかパジェロに乗って北へ向かっていたが、崖崩れのため足止めを食らっていたのである。しかし竜元からここまでの道中、いたるところで道が崩れていたことを考えると、雨季のあいだは足止めばかりで仕事にならないのではないかと思った。

 結局のところ行政府の建物にもどり、コンクリの庭のかたわらの板敷の旅社に泊まることになった。ここはおそらく村政府の招待所だろう。長滞在している西洋人がベースにしているらしい部屋(アルミカップが置いてあった)に荷物を置いた。庭を隔てた向こう側の木造の建物が売店であり、食堂だった。都会から来るとずいぶんと田舎の村だなあと感じるだろうが、15年前と比べると、建物やコンクリ、食堂、宿、売店があるだけでも雲泥の差である。

 夕食はこの敷地を出たところの民家で食べた。部屋の中央に囲炉裏があり、家の女主人が直径60センチはあろうかという大鍋にあらゆるものをぶっこんで炒めた。昼間、迷っているときに民家の先に干してあった干物の魚もまたこうして食べた。川魚も干物も大好きな私ではあるが、この魚は生臭く、小骨が多くて食べるのに苦労した。足元には子豚と子犬がいて争って人間の落としたものを食っていた。子犬が食べ物にありつくと、横から子豚が奪い取り、子犬が「キャンキャン」と泣き叫ぶ、こうしたことの繰り返しだった。子犬と子豚なら子豚のほうが圧倒的に強いのだ。こういう動物のことにも人間世界の縮図を見てしまう。私は同情して子豚がいないときを見計らって子犬に食べ物をやる。しかし遠くから子豚が突進してきて奪い取り、またも子犬は「キャンキャン」と泣き叫ぶのだった。もう一月もすれば子犬のほうがうまく立ち回るようになり、主人からも可愛がられるのだろうけど。

 夕食の前、近くに刺青の女性がいると聞いたので、さっそく訪ねた。民家がまとまって集落を成している地域に入ると、幼児から高校生ぐらいの年頃までのさまざまな子供たちが走り回って遊んでいた。

 気品のあるおばあさんだった。話を聞きながら15年前に撮った写真のプリントを見せると、背後にいた孫娘が叫んだ。「これおばあちゃんじゃない!」

 たしかに見たことがあるような気がしていた。どういうふうに会ったのか、どうしても思い出せない。しかし会ったのはたしかだし、この写真の表情はずっと好きだった。

 しかし驚いたことには、ほかの写真を見ながら、「これは私の妹です」とクレンを指したのである。勘違いだと思った。それほど似ていなかったからだ。ピグミー疑惑のあるクレンとちがい、このおばあさんは平均的な背丈だ。だが「熊当のナムサのクレンか」と問うと「そうだ」という答え。写真を撮ってから15年、ふたりが姉妹であることに一度も思い至らなかったのだ。

 彼女は熊当の出身で、迪政当村の農家に嫁いできた。彼女は75歳、クレンがもし生きていたら、70歳そこそこだったということになる。隣村とはいえ、熊当の生活は迪政当と比べると相当に厳しかったのではなかっただろうか。

(この項つづく)