ヒマラヤを越えた文字喪失伝承(2) 宮本神酒男 

 タマン族とおそらく近親関係にあると思われる民族に、チベット自治区とアルナチャル・プラデシュ州の中印国境にまたがって分布するロパ族がある。ロパ(Lhopa)はチベット語で南方人を意味し、チベット人からは野蛮な人食い人種とみなされてきたが(14世紀のチベット文献にその名が見える)まとまりのある民族というより、多くの部族の集合体といえる。そのなかのガロン族(インド領ヒマラヤ南麓に分布)に文字喪失伝承があった。

[インド・ガロン族] 
 ガロン族の祖先ミニとチベット人の祖先は兄弟で、ふたりとも文字を持っていた。彼らが大きくなると、父親は言った。
「おまえたちは大きくなったのだから、父親のもとにいるべきではない」
 そしてそれぞれに種を渡し、「その芽が出た方向に行きなさい」と告げた。 ミニがもらった種は竹で、その芽は南を指した。そこで父親の言葉にしたがってミニは南方をめざした。ずっと歩くうち、食料が尽きてしまったが、まだ適当な場所を決めることができなかった。仕方がないので、ミニは携えていた牛皮を食べてしまった。その牛皮上には父親が新しい土地に到着したら何をしたらいいか事細かく記していた。しかしその牛皮を食べてしまったので、ガロン族に文字はないのである。

 ロパ族の東隣りの察隅河流域地方にDeng(ニンベンに登)人と呼ばれる未公認の民族がいる。人口は2万人から3万人ほどとされるが、大半がインド領に住み、中国領内に住むのは1391人(2006年統計)にすぎない。彼らはタラオン族(ディガロ族)とカマン族(ミジュ族)の二大支系からなる。また、タラオン族、カマン族とロパ族の支系イドゥ族をあわせてミシュミという総称で呼ばれている。ミシュミ族は、ミャンマー北部のラワン族や雲南の独竜族とも非常に近いという。その彼らにも文字喪失伝承があった。

[インド・ミシュミ族] 
 タラオンの創世神話のなかで地を造り、山をなし、水を引いたのはアジャニである。アジャニから4人の子供が生まれた。長男は弟たちに向かって「われら兄弟、いつまでもここにいっしょにいよう!」と声高らかに言ったが、四男は山に入って開墾し、栗を植えた。ついで長男が平原へ向かうと、そこは金を産し、農産物がたくさんとれる豊かな土地だった。かれは漢族になった。二男、三男も家を離れ、チベット族、ロパ族になった。四男が山からもどってくると、家には野犬の皮と筵、食べ物がわずかに残っているだけだった。もともと家には文字があったが、長男と二男が持ち去ってしまっていた。すこしばかりの文字が残されていたが、四男はおなかが減っていたのでそれを食べてしまった。それ以来四男の子孫であるタラオン族には文字がないのである。(文字がどこに記されていたか明確でないが、野犬の皮の上なのだろう。ということは、彼らは犬肉および犬皮を食べていたということだ)

  ミシュミ族やラワン族の地域の南隣りに住むのはリス族である。ミャンマー北部カチン州のリス族の地域に長年調査研究のため入り、村長の娘と結婚した(ある意味で理想的な結婚だ)フランスの文化人類学者ウィリアム・デサンが収集した伝説のひとつに文字喪失伝承があった。

[ミャンマー・リス族] 
 昔、賢者が人間に文字を教えるために、世界中を歩き回っていた。そうしてリス族の土地にやってきた。ある家の前に子供が立っていたので、賢者はたずねた。
「やあ、きみはひとりなのかい? ご両親は留守なのかい?」
「うん、父さんも母さんも田んぼに行ってるよ」
 そのとき賢者は家に中に見慣れぬ果実のようなものがあるのに気付き、それが何かたずねた。
「バベンガエさ! これで皿を洗うんだ」
「だれが作るんだい?」
「父さん、母さんじゃないよ」
 賢者はその果実のようなものを手に取って繊維を引き抜きはじめた。それはするするとほどけていって、ついにすべてがなくなった。賢者は考えた。
「なんて器用に作られていることだろう。こんな聡明な人々に何かを教えようなんて、おこがましいにも程がある」
 そして賢者はリス族の土地をあとにした。賢者はノス族(イ族)、ナシ族、チベット族に文字を教えたが、リス族には教えなかったのは、こういったいきさつがあったからだった。ちなみにバベンガエとは、ヘチマのことである。

昔々、賢者が世界中をまわりながら文字を教えていた。文字は、文明と置き換えてもいいだろう。賢者はヘチマを見てそれが人によって作られたものだと思い、こんな高度な技術を持った人々なら当然文字を持っているだろうから、文字を教える必要などないだろうと考え、何も教えずに立ち去ったという一種の笑い話だ。もちろんヘチマは植物なので、リス族に高度な技術などなく、文字が与えられなかったため、文明の進歩から落伍することになってしまった。自虐ネタである。文字がないのは民族のコンプレックスでもあるので、笑い飛ばすしかなかったのだ。



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