鏡像

ネウィット・エルギン 宮本神酒男訳

 鏡をのぞいて自分の姿を見る必要はなかった。ただ彼のことを考え、思い出しさえすれば。つまり彼の歩き方や話し方を思い浮かべればよかったのだ。いま私がしていることは、彼が昔、していたこととまったくおなじである。

 私は彼の息子なのだから、ほとんどの人が記憶している父の年齢に達したいま、父に似ているといわれるのは当然の帰結だろう。十代前半の頃のように、父と比べられても私は腹を立てるようなことはない。あの頃は、自分は自分だと考えていたし、あこがれのムービースターのようでありたいと願っていた。私は父が好きだった。ただ外見が父のようになりたくなかっただけなのだ。

 それから何年もの月日が流れた。ずいぶん遠くまで旅をしてきたので、父と子両方を知る人はいなかった。いっしょにいるところを見る機会がだれにもなかったので、比較のしようがないのだ。

 五年から十年ごとに家に帰るたび、時間がいかに残酷であるかがわかった。これが年を取るということなのだろうか。肥えて、鈍くて、動作が緩慢になる、それはいたしかたないことなのだろうか。

 おそらくそのぶん賢くはなっているのだろう。ただ本当にそうなのかどうか、一度として確かめようと考えたことはないのだけれど。私は日々こまごましたことで忙しく、父のことを十分に知る機会がなかった。

 故郷に戻ってきた私は、出て行ったときとおなじく裸足で、から手だ。人生にはさまざまなことがあった。ずいぶんと時間やお金を費やしてきたけれど、そうやって投資した相手の人々のことは、いまやどうでもよくなっている。大きな円環は、故郷に帰ることで閉じられるのだ。この数年そうであったような短期の帰省ではない。ずっとここに居続けることになるだろう。なぜならほかに行く場所がないのだから。

 二階に上りながら、ガウンを肩に掛け、ゆるやかに帯を締め、ドアの前に立つ父の姿を思い浮かべた。父がこの瞬間を何年も待ち続けていたことを私は知っていた。その目は潤み、からだは小刻みにふるえているだろう。

 そうであったらどんなによかっただろう。父の姿はなかった。

 二時間後、私は父のスリッパを履き、父の肘掛に坐っていた。どうした按排で家の中の父がいた空間を占めることになったのか、よくわからなかった。

 サラはまるで私が父であるかのように見つめ、話しかけてきた。サラは年老いていた。彼女はまだ子供の頃どこかからこの家にやってきた。家族同然にこの家で育ち、母が死んでからはひとりで家のことを取り仕切るようになった。父の最期の日々は完璧といっていいほど甲斐甲斐しく世話をしていた。サラが私にたいしてもこまかく気を使ってくれるおかげで、慰められたように感じたのだけれど、ひとりになると漠然と不安がもたげてくるのだった。

 父の家の、いや私の家なのだが、そのすみずみまで観察した。いくつも廊下があった。小さなバルコニーはさらに小さな出っ張りにつながっていた。そして父がほとんどの時間をすごした寝室があった。いや、私はここで過ごすことにしたのだから、私の寝室だ。

 当時の日々を思い起こさせる数枚の写真が飾ってあった。よい思い出も、悪い思い出もよみがえってきた。現実に起こったできごとよりも、夢見たことのほうが記憶に残っていた。

 突然私は記憶も夢も悪夢も、すべてにストップをかけたくなった。私はサラを呼び、あたらしい計画を打ち明けた。失ったすべてのものを取り戻して、ここから飛び出すという計画。

「どこへ行こうとおっしゃるの」と彼女はたずねる。

 私は気がついた。現実をうけいれず、そわそわしていたのはサラではなく、私のほうだったのだ。彼女はすべてをあるがままに受け入れていた。サラは父がそうであったように、この家の、あるいは日常風景のなかに溶け込んでいた。沈黙が流れても、彼女は気にするふうでもなかった。不必要な物音を立てないように気を使い、無駄なことをしなかった。必要なことだけをして、話すべきことだけを話した。

 それはずっと昔の私のやりかたでもあった。だれもがはじめはそうなのだ。それから私は変わった。間が空くのが恐くて、私は話すにしても何かをするにしても材料となるものを探さなければならなかった。いつも何かあたらしいものが必要だった。ひとりぼっちになるのがいやだった。退屈だ、といいながら、その実だれかがいないと不安だった。一度堕ちてしまった悪循環から自分自身を引き上げることができなかった。そうして生じる不安感は影のようにつきまとった。週末になるとかならずそんなことばかりを考えるのだった。

 このあたらしい現実と挑戦がいま、ここにあった。この現実という鏡に父と似た私の姿があった。それはどこか恐ろしくて不安を掻き立てるようなものではあったけれど。私は罪の意識のようなものを感じた。

 父のことをより深く認識すればするほど、このあたらしいアイデンティティーがしっくりとくるのだった。私自身のなかに父の姿があれば、父のベッド、つまり私のベッドに入るまで落ち着いていることができた。それからすべてが変わり始めた。

 起床。だが、まだ半分しか目覚めていない。すると父の声が私に話しかけてきた。

「人以外のあらゆる生き物は永遠に生きていけると思っておる。それは死について何も知らんからだ」

 私は自分が父のような気がしてきた。それは長く辛い人生の終わりの日が近づいている前兆かもしれなかった。はるか遠くからクラリネットかオーボエの憑かれたような音が響いてきた。沈鬱な笛の音に誘われて溺れてしまいそうだった。毎秒ごとに意識のなかでなにかが縮こまっていった。でもそれが人生の終わりだとは認めたくなかった。助けを求めてあたりを見回すと、小さなテーブルがあり、そのうえに薬壜があった。

 私は一錠ほど服用した。それからもう一錠を舌の下に入れた。だれかの助けがほしかったが、声をあげることができなかった。ふとベッドの隣りに私自身が立っているのに気がついた。私自身はだまったままじっと私を見ていた。それともそれは父だったのだろうか。「私」とはだれなのか? 私自身なのか、父なのか。ふたりはもはや識別しがたかった。何がなんだかわからなくなった。

 父は握手をしようと手を差し出した。父の手はいつもふるえていたけど、いまは動かすのもむつかしそうだった。私は父の手をとった。手の平に何かが握られていたので、私はそれをつかんだ。父は弱々しい笑いを浮かべた。その息が私の頬を撫でた。顔を近づけると、父の顔は変化しはじめた。

 父の目が、それから口が柔らかくなり、すべての輪郭がなめらかになった。髪の毛が豊かになり、色がもどってきた。私は老人が小さな子供に変わっていくさまを眺めていた。子供は変化して青い目と笑顔の幼児となった。

 この赤ん坊が写った古い写真に見覚えがあった。両親はこの赤ん坊のとなりに立っていた。

「このときあなたはたったの五ヶ月だったのよ」とはじめてこの写真を私に見せたとき、両親はいった。そのときこの赤ん坊のとなりに立つ男の人は自分に似ているなと私は思った。赤ん坊は単純にだれかにすぎなかった。

 翌朝目覚めたとき、私は手に小さな指輪を握りしめていた。青い宝石の指輪だった。

「忘れたのかい?」とサラはいった。「これはお父さんの指輪だよ。ずいぶん昔に失くしてしまったんだよ。あちこち探しまくったけど、見つからなかった」

 サラは間を置いてから感慨深そうに私をじっと見つめた。

「いったいどこで見つけたんだい」

 

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