上海の高級ホテルのロビーで有名女性歌手と会うも、置き引きに遭う(1986年) 

 長生きするのも悪くない、と思うことがある。80年代の上海と現在の上海ではまるで百年の隔たりがあるのではないかと思われるほど異なるが、その両方を目撃することができたからだ。大阪の港を発ったフェリーの鑑真号が上海の港に着いたのは夜明け前だった。ゆっくりと船体がかしぐ感覚を残しながら、ふらつく足取りで降り立つと、埠頭にはアル・カポネの時代のアメリカを思わせるクラシックカーそのものの上海号(タクシー)が待っていた。ある人物の紹介で私を受け入れてくれることになった美しい上海人姉妹(ふたりとものちに日本に来ている)が迎えに来てくれていたのだ。はじめて見る中国は強烈だった。埠頭には伝説的な香港ドラマ「上海灘」にぴったりのレトロな雰囲気があった。後日、街に繰り出すと、朝から晩まで群衆が(多くがいまだ人民服を着て、人民帽をかぶっていた)あてもなく通りをぞろぞろと歩いていた。噂ではほとんどの人が無職ということだった。文革の残滓がよどんでいた夜明け前の中国からどうやっていまの中国になったのだろうか。鄧小平が偉大だったのか、江沢民が優秀だったのか。 

はじめ、歴史的建造物である七重天賓館(「上海灘」の舞台だったという。現在は立派なモダンな高級ホテルに変わっている)の高層階に泊った。張り出した窓が古くてはずれそうである種のスリルがあった。後半はいにしえの上海を象徴する和平飯店のだだっ広い部屋(どう見てもスイートルーム)に泊っている。当時、七重天賓館の下層のほうにはテレビ局(上海電視台)が入っていた。姉妹のお姉さんは「お姉さんといっしょ」のような教育番組の「お姉さん」を担当していて、後日私はその番組収録中の(七重天賓館内の)スタジオを訪ねている。女性ディレクターとも(内容は覚えていないが)少し話をすることができた。お姉さんの紹介があったので、私は中国で知られた(とくに上海で著名な)女性歌手と会うことになったのではないかと思う。しかしこの記念すべき会見は悲惨な結果をもたらすことになる。

 現在ではとうてい考えられないことだが、一般の中国人民が宿泊客でもないのに高級ホテルに入るのは容易ではなかった。ホテル内のレストランで食事をしようと思っても、外国人といっしょか、紹介がなければドアマンが中にいれてくれなかった。一方で外国人も町中で食事をするのは原則的に禁じられていた。手元には兌換券(FEC)しかなく、食堂では配給券が必要だった。これほどがっちりと、人民と外国人の間には隔壁があった。だからホテル内、しかも上海でもっとも格式の高い錦江飯店であれば安全だと信じ切っていたのだ。しかしもちろん実際は逆で、安心しきっている人こそが犯罪者にとっては狙い目だった。

 浮足立つ、とはこういうことを言うのだろう。ホテルのロビーで待っていると、遠くからあわただしい雰囲気が波のように押し寄せてきた。有名人が通るときによく見られる現象だ。みながひそひそ話をしたり、あえて気づかないふりをしたりして、ざわつくのだ。私は女性歌手の姿を遠くに確認したときから、たしかに浮足立っていた。彼女のほうに駆けより、挨拶を交わしたあと、そのままラウンジのほうへ移動しようとして、ふと気がついた。カメラバッグをロビーのソファに置いたままだったのだ。ほんの十秒のことだった。私はあせりを感じることもなく、大またでロビーに戻った。ソファにあるはずのバッグが消えていることに気づいたものの、まず「ないはずはない!」と心の中で叫んだ。まわりには何人ものホテル・スタッフがいるのに、だれも気づかないはずはない。気を利かせてスタッフがどこかにキープしているのではないか。しかし、もちろん、そんなことはなかった。日本から海外に出てすぐは、治安のいい日本の感覚から抜けられないもの。このときの私がまさにそれ、油断もスキもアリアリの間抜け日本人だった。しかも絶対に肌身離さぬカメラバッグということで(カメラは首にかけていた)現金10万円ほどを入れていたのだ。頭がクラクラしてきた。足元のフロアがガラガラと音をたてて崩れていく。

 しばらくすると、ホテル側が通報したのだろう、公安(警察)がやってきた。何人来たのか数えていないが、このあと増えていってけっこうな数に達していたような気がする。自分の油断から大騒ぎになり、女性歌手にたいし、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。彼女は三十代のおとなの雰囲気を漂わせた歌手で、日本では考えられないような、こぶしをきかせない、一本調子で熱唱する不思議な歌い方を特徴としていた。正直、うまいのか下手なのかわからなかったが、なんとなく惹き込まれてしまう魅力があった。上海の政府や党幹部からも支持されていたのではないかと思う。名前がどうしても思い出せないので、「百度」(Baidu)で検索してデータを探し出したい。

 かなり大きな営業前のレストランが急遽臨時の取り調べ室となった。私や歌手本人のほか、上海姉妹や友人らがそれぞれテーブルに分かれて事情聴取を受けることになった。ここまでやるのなら、監視カメラのチェックをするべきなのだが、当時はそういう防犯器具はなかったのだろうか。ともかく私は被害者だったので、テーブルにふたりの公安がついて、事情聴取を受けた。犯人らしき人物は認識できなかったので(あるいはロビーにいる人全員が犯人に見えたので)私は解決につながることは何も言えなかった。ふと横の女性歌手のテーブルを見ると、男の公安が四人もついていた。彼女はもちろん何が起きたかも理解していなかっただろう。公安の男たちも「ラッキー」といった面持ちで、聞きたいことを聞いているようだった。事情聴取というよりも談笑だった。

 こんなふうになんとも間の抜けた事態になってしまったのだが、今から考えると、この女性歌手には多少きわどい質問をぶつけたかった。年代からすると、彼女は文革(19661976)を生き抜いてトップに君臨していた。小説『ワイルドスワン』に描かれているような生死をかけた戦いが繰り広げられていたにちがいない。そういったことは触れてはいけない話題なのかもしれないが。大理(雲南省)に滞在していたときも、あるきれいな女性に対し、「あれは(文革の時代)チクリ屋だった」と陰口がたたかれるのを見たことがあった。文革の記憶はまだ薄れていなかった。

 おカネが返ってくることも、犯人が捕まることもありそうになかった。手持ちのカネがなかったので、私はとりあえず実家の両親に電話をかけた。国際電話をかけている間、近くにいた旅行中に親しくなっていた大きな会社勤めのH氏から何万円かお貸ししましょうという申し出があった。この申し出は渡りに船でたいへんありがたく、私は当面必要な分を借りることにした。問題はその直後のことである。わが両親はなんということか、私の勤め先である編集部に電話をかけて、息子が困った状況に陥っているようだ、しかも近くにあやしい人がいるようだ、と相談をもちかけていたのである。両親には感謝してもしきれないくらいの気持ちでいるけれど、この電話のためにあとで笑われてしまう結果になり、このときばかりは恥ずかしい思いをすることになってしまった。

 後日、上海姉妹が日本にやってきたとき、H氏の車で京都や奈良を見て回ったことがあった。うまく交友(日中交流)が進んでいるように思われた。しかしなんということか、その後上京してきたH氏は私に交際を申し込んできたのである。青天霹靂とはこのこと。「それってホ…じゃん」ホテルの横のカフェでH氏と会っていた私は心の中でつぶやいた。この予想外の展開に私はひどく驚いたが、もちろん丁重に断らざるを得なかった。これ以来気まずくなり、交友関係がうまくいかなくなってしまったのである。


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