美しいフンザの山で白日夢を見る(1989) 

 一時期、ネットを見ると、パキスタン北部のフンザは宮崎駿映画「風の谷のナウシカ」のモデルとなった場所であるとしきりに書かれていたが、はじめて訪れた頃、私はナウシカ好きであったにもかかわらず、そのことについて聞いたことがなかった。世界長寿の里のひとつとは聞いていた。長寿の里として知られるのはほかにコーカサス、ビルカバンバ(エクアドル)、広西チワン族自治区の巴馬(パーマー)ヤオ族自治県の巴馬長寿村などである。フンザといえば景色が美しく、健全なる村というイメージがあった。

 それだけに長距離バスがフンザの下に着いたときの小さなできごとはとても奇妙で幻想的でもあった。私とほかに2、3人が降り立っただけでバスはカラコルムハイウェイを北のほうへ走り去った。ホテルが密集している中心部へは20分以上かけて上がっていかねばならない。そのとき上のほうから黒い粒のかたまりが押し寄せてきた。それはしだいに大きくなり、5、6人の人影がからみあうようにして走ってくるのがわかった。彼らはものすごい勢いでやってきて、あっという間にひとりひとりの見分けがつくまでに近づいてきた。まるで私にタックルをしかけてくるのかと思われるほど彼らは接近してきた。驚くべきことに彼らは全員が小人だった。私は気おされて一歩下がり、半身をそらした。しかし彼らはそのまま私のかたわらを駆け抜けていったのである。砂塵が舞い上がった。彼らはペースを落とさず一心不乱に走っていった。やがて黒い小さな点になり、消えていった。彼らは何者なのか、何をしているのか、どこへ行ったのか、いまもわからない。

 気を取り直して私はフンザの中心部へと向かって道を上がっていこうとした。そのときずっと上のほうでだれかが手を振っていた。まわりには人がいなくなっていたので、私に向かって手を振っているとしか思えなかった。数十メートル歩いて、ようやく以前ジャカルタで知り合った日本人青年であることがわかった。旅人同士で周波数が会うということはよくあることだが、かなり離れたところからよく私を認識できたものだと思う。21世紀の最初の日の出を見ようとインド最南端のカンニヤークマリの岬に行ったときは、日ごろ接している編集者やビエンチャンなどで会った日本人とばったり出会っている。こういう偶然があったときは、神の意思というものを感じてしまうものだ。

 フンザ渓谷の小高い丘の上に聳え立つ8世紀建立の城塞、バルティット・フォートの孤高とした雰囲気が私は気に入っている。最初に訪れたときは窓にステンドグラスが入っていて、ステンドグラス越しに見える村の風景が心にしみてきた。しかし久しぶりに訪れた2007年にはまるで最初からなかったかのように消えていた。

 城塞の下の路地には多くの店があるが、その多くでルビーの原石やラピスラズリを売っていた。ラピスラズリは現地で採れるわけではないだろうが、大産地のワハーン回廊(アフガニスタン東部の細長く突き出た地域)からそれほど遠くなく、ここが交易ルート上に位置しているからだろうか。ではルビーはどうだろうか。

 街(というより村だけど)を歩いていると、何人かの子どもたちに声をかけられた。「ルビーだよ! 一個1ドル!」

 大粒のキャンディーくらいの大きさのルビーの原石を子どもたちは大量に持っているようだった。ということは、地元で採れるにちがいない。

「おい、ぼうや。このルビーどこで採れるんだい?」

「あっち」とその子は素直に村の西の山を指さした。あとでルビー探しでもするか、と私はぼんやりと考えた。

 バルティット・フォートの裏手の山あいをずっと歩いて奥に入っていくトレッキングルートは、短期間で氷河や7千メートル級の高山が楽しめるとしてトレッカーの間で人気があった。私は地元の19歳の少年をガイドに雇った。少年は、少年らしい初々しさがなく、自慢の「金髪」もどちらかといえば茶髪だった。最近アメリカ人の顧客に気に入れられたらしく、本人によれば近くアメリカに行くという。善意のアメリカ人が彼を養子に迎えるとのことだった。実際、(写真を見せてもらった)この小太りの40代のアメリカ人はひとりで大きな家に住んでいて、見た目にも同性愛者ではないかと思うのだが……。彼本人はまったく気にしていないようだった。

 数時間歩くと、氷河の谷間に着いた。7千メートルの高山の麓に巨大な黒い氷河があり、そのさらに下のほうに羊や山羊の放牧にぴったりのなだらかな草地が広がっている。実際、数百匹の山羊が緑の絨毯のあちこちで草を食んでいた。そののどかな風景の中に私はテントを張った。そして横になって文庫本を読み始めた。すぐ隣では山羊が気持ちよさそうにムシャムシャ草を食べている。ふと、山羊を見ると、食べていたのはガイドブックだった。「うわっ、おまえ何を食べてんだ!」私は思わず声を荒げてしまった。草よりガイドブックのほうがおいしいのだろうか。

 草地の中央より山側にシェパード小屋があった。中に入ると桶のようなものがあり、なかに黒い物体が入っていた。近づくといっせいに黒いものが「ウワーン」とうなり声をあげバラバラになって飛散した。ハエだった。ハエがすべていなくなると、白い物体が残った。チーズである。ヤギのチーズだった。それを口に入れると――まるで天界の食べ物であるかのようにおいしかった。ハエがいたことは気にはなったが。

 夜、意外なことに騒音問題でなかなか眠れなかった。目の前に広がる黒い氷河がうるさいのだ。つねにギシギシ、メリメリという音を発し、ときには発破をかけたかのようなドカーンという大きな音が聞こえた。ときには重低音のコンチェルト(協奏曲)とでもいうような「音楽」が聞こえてくることもあった。これほど間近に氷河を見たり感じたりしたことはなかった。いつか氷河の上を歩いてみたい、とふと思った。その後飛行機の窓から外を眺めていて、下に見えるカラコルム山脈の大氷河に圧倒され、いつかここに行ってみたいと願った。私がクンジュラブ峠に近いカラコルム山脈の大氷河を歩くことができたのは――そして足を滑らせてすべり落ち、体を強く打ったのは――ようやく2007年のことだった。

 翌朝、私とガイドは氷河のかたわらを登っていった。ガイドを先に尾根の向こうに行かせ、私は単独である程度の高さにまで到達した。ガイドはあとで私が海抜5千メートルを超える地点に達していたと主張したが、そんなに高いはずはないと私は思った。富士山に登るのだって、五合目(2500m?)から山頂(3776m)まで標高差は1200メートルほどである。どういう試算をしたか覚えていないが、数時間登っただけなので、せいぜい4千メートルを超えたあたりだろうと私は推測した。

 いずれにしてもまだまだ高地慣れしていなかった私には、空気が薄すぎると感じた。文字通りthin airだ。頭がぼうっとして、カメラバッグをきちんと閉めることすらできなくなった。そのためカメラのレンズが地面に落ちてしまったが、転がる寸前に押さえることができた。ウトウトした私は妙にクリアな白昼夢を見ていた。夢の中にはさまざまな国の登山家が現れた。イタリア人、オーストリア人、ポルトガル人、そして日本人も登場した。イタリア人はさわやかな、明るい青年で、結婚したばかりの新妻のことを自慢げに語った。オーストリア人は堅い仕事を持った勤勉そうな中年男性だった。顔面ヒゲだらけのポルトガル人は発音に癖があり、何を言っているかわからなかった。日本人は医師で、意志の強い、それでいて温厚な人物だった。彼らはいったいだれなのだろうか。山の事故で亡くなった人々なのか。

 尾根を越えたところで私は大きな岩の上にビバークした。水をすべて消費してしまったため、岩のくぼみの水滴が落ちるところにブリキの器を置いた。それにたまった水でのどの渇きを潤すことができた。

 じつは、すこし危なかった。崖っぷちの平らな岩の上に(岩はわずかに傾斜していた)テントを張ったのだが、杭(ペグ)で固定することができなかった。そのためずれやすいテントの中で寝袋に入って寝るしかなかった。翌日未明、いやな感じがして目覚めたとき、テントごと岩の端に移動していたことに気づいた。もう少しずれていたら、そのまま崖からまっさかさまに落っこちるところだった。

 山を下っていくと、小型トラックの荷台ほどの大きな岩があった。岩がきらきらと光るので、不思議に思って近づくと、岩の表面にはぎっしりとルビーのような宝石がはまっていた。なんとかそぎ落とせないものかといろいろやってみたが、どうしようもなかった。つぎに来る機会があれば、ドリルでも持ってこようかと思ったが、つぎの機会というものは来ていない。

 そのまま斜面を降りていく。まるで草がところどころ生えた砂丘か砂漠が坂になったかのようだ。砂スキー(私は幼少の頃鳥取砂丘の近くに住んでいた)の要領で下る。砂が舞い上がる。そのとき砂の中にきらりと光る赤いものを見つけた。ルビーである。よく見るとルビーの原石が無数といっていいほどたくさんあるのだ。ここがルビー売りの子供が言っていた「ルビーがある場所」なのだろうか。私はスキーをしつつ(スキーをしているような要領で)急坂を下りながらルビーをすくい上げ、バッグがいっぱいになるまで入れつづけた。なんだか急に富豪になったかのようである。このときもまたつぎの機会にはもっとたくさん持って帰ろうと思ったが、つぎの機会はいまのところない。

 帰国後、私は鉱物研究所の堀秀道所長(2019年1月に永眠。合掌)にこのルビーの原石を鑑定してもらった。(そういえば堀さんはときどき「なんでも鑑定団」に出演していた)鑑定結果は驚くべきものだった。

「これはルビーではありませんね」

「え?」背後で何かがガラガラとくずれおちた。

「ルビーではなくガーネットです」

「ガ、ガーネット……」

 当時私の頭の中にガーネットという文字はなく、そのへんの石を持ち帰ってきてしまったのかと後悔しはじめていた。子供たちが売っていたのはガーネットだったのか。

「でも資料によると(そう言って何かの資料を見せてくれた)フンザのあたりにルビーの鉱床があるのもたしかなんですよ」

 知っている人はよく知っているだろうが、ガーネットは一月の誕生石。立派な宝石である。ルビーよりも炎の色に近いということで、気に入っている人も多いだろう。機会があればもう一度ガーネット採りをしたい。同時にその近くにあるはずのルビー鉱床も探したいものである。

 さて私は「ガーネットの坂」を駆け下りたあと、ガイドの家族が所有する果樹園に入った。この果樹園の主人公は数十本のアプリコットの木である。

「アプリコットは好きなだけ食べていいよ」ガイドはほほえみながら言った。

 テントを張ったあと、ガイドが去ると、残されたのは私と小さな男の子だけだった……といっても子牛の話だが。手元の懐中電灯しか明かりがなかったので、日が暮れると果樹園の中は真っ暗になり、ひとりきりだと不安と恐怖に支配されることになる。そこに子牛がいるだけで心はやわらぎ、ほっとするのだ。

 アプリコットをいくつ食べたろうか。10個以上、もしかすると20個くらい食べたかもしれない。酸味と甘みがブレンドされたこんなにおいしいフルーツ、食べたことない、と私は心の底から思った。果肉を食べると私は外殻を石で割った。中から出てくるナッツがドクターペッパー風味のアーモンドみたいで、このうえなくおいしかった。これこそ杏仁(アンニン)ではないか。杏はアプリコットで、仁は種という意味である。アーモンドに負けないくらいの美味なのに、なぜわれわれにはこれを食べる習慣がないのだろうか。中国人は杏仁豆腐というデザートを作り出した点においては評価できるが、杏仁を薬材として用いてきたものの、ナッツとして捉えてこなかった。このあたりにはなんらかの理由があるのだろうが、ミステリーである。

 夜も更け、私は寝袋の中で熟睡しているはずだったが、騒音に悩まされ、眠れなかった。子牛が一晩中クチャクチャと音をたて、やかましかったのである。牛が反芻動物であることを私は思い出した。四つも胃を持っているのだという。昼間に食べた草を胃に戻し、夜、もう一度咀嚼していたのだ。ちなみになぜ子牛がここに一頭だけでいるかといえば、おとなたちは山の上のほうの草地に(ここも海抜2600mくらいだが)放牧されているからだった。

 フンザを出るとき、私のバックパックをとりまとめていたガイドの少年が妙によそよそしい表情を見せていた。多少関係がうまくいかなくても、別れ際には愛想笑いくらいは浮かべるものだ。彼との関係はむしろ良好だったので、この点が気にかかってしまった。

 あとで自分の荷物をチェックすると、石井スポーツで買ったお気に入りの登山ナイフがなくなっていた。ガイドがくすねたらしい。「こんなやつ、アメリカに行ってホモ親父の奴隷にでもなっちまえ」と叫びたくなった。いまはむしろ昔の話だが、身を案じている。この手癖のわるさでは、アメリカに行ったとしても犯罪に走ることになっただろう。アメリカにおけるパキスタン人差別も半端ではない。夢に描いたアメリカンライフを送れているとはとうてい思えないのである。