ザンジバル発モンバサ行きダウ船の地獄の旅(1989) 

 映画『ボヘミアン・ラプソディ』(2018)は天才アーティストの真実を描いたいい映画だったが、衝撃度という点では、私にとってさほど大きくなかった。というのも、以前、BBCが制作したドキュメンタリー『輝ける日々』(2011)を見たとき、すでにショックを受けていたからだ。フレディ・マーキュリーの元恋人というオジサンが語りはじめたときは、理解するまでかなりの時間を要した。さらに驚ろかされたのは、フレディがザンジバル島(ウングジャ島)の出身だったことだ。フレディはわがお気に入りのアフリカの島、ザンジバルに住むインド人パールシー教徒の家に生まれたのだ。映画の中でフレディが「パキ野郎!」とののしられるシーンがあるが、本人は自分のことをペルシア人と呼んでいた。パールシー教徒とはゾロアスター教徒(拝火教徒)であり、ペルシアに住んでいたが、弾圧を恐れて大量にインドに移住したのが彼らの先祖なのである。インドを代表する財閥、タタ財閥のように、パールシー教徒には富裕層が多い。*いま昔の地図を見て気づいたのだが、ゾロアスター教のFire Templeというものがある。しかも消防署の近くに! 

 タンザニアの当時の都、ダルエスサラームの港で私は絵に描いたような英国の知的で渋めの30代カップルと仲良くなった。ザンジバル行きの船がなかなかやってこず、「まさかスワヒリタイムじゃないよね」などと話し合ったのがきっかけである。実際、船は6時間遅れでやってきた。スワヒリタイム(時間が6時間ずれる)であるなら、時間ぴったりということになる。

 ザンジバル・フェリーのすぐ近くに聖ヨセフ大聖堂があったので(当時の大聖堂は建物が老朽化していたがおもむきがあり、古さびた美しさがあった。現在の大聖堂は写真で見るかぎりモダンできれいすぎる)私は英国人カップルとここを訪ね、しばらく神父さんと話をすることができた。神父さんは若々しく(実際40歳くらいだったのだろう)、さっそうとして格好よかった。その顔立ちはまったくの白人なのに、肌が褐色であるのが不思議だった。おもに奴隷貿易やリビングストンについて話したような気がするが、内容はまったく覚えていない。奴隷貿易についてはまたプリズン島の項で触れたい。

 フェリーが近づいたとき波間に見えるザンジバルのストーンタウンの刷毛で白粉(おしろい)をこすったような街並みは、言葉を絶するほど美しかった。ダウ船の帆の輝くような白い色が見えると、心臓が高鳴った。当時私はNHKのシリーズ「海のシルクロード」が大好きで、世界各地の海を訪れるたびにS. E. N. S. のテーマソングが流れてきた。このときは番組の冒頭のシーンそっくりのダウ船が現れたものだから、音楽が流れ出すとともに、感極まって涙も噴出してきた、大げさに言えば。できればダウ船に乗ってみたいものだと思ったが、その願望はわずか数日ののちにかなうことになる。夢が現実になったとき、つねに、夢と現実は違うものだと思い知らされるものだ。

 現在は一変しているのだが、当時、街中は陰鬱で、沈滞ムードが漂っていた。街頭でシャツを売っている様子をカメラに収めようとしただけで怒号が返ってきた。みながピリピリしていた。ザンジバルでは1964年に社会主義革命が起き、オマーンは駆逐された。ここを保護領としていた英国も撤退。そのあとザンジバルは大陸のタンガニーカと合併し、現在のタンザニア連合共和国が成立している。中国の文化大革命を模範としたためか、80年代のタンザニアは革命党の一党独裁で、国全体が極度に貧しく、人民に生活を楽しむ余裕はなかった。当時のザンジバルの地図を広げると、毛沢東(Mao Tse-tung)スタジアム(現在のMau Sentung Stadium)やVI・レーニン病院(現在のMnazi Mmoja Hospital)といった共産国らしい名前が散見される。とはいってもこの時期にタンザニアの経済は自由化され、90年代には政治が民主化された。こうしてザンジバルの経済は復興し、現在の発展へとつながっている。

 私と英国人カップルはタクシーの一日ツアーを申し込んだ。申し込んだといっても売り込んできたタクシー運転手と交渉しただけだが。それはとても奇妙な、フルーツなどを探索する島めぐりのツアーだった。

 タクシーは路地の奥で止まった。そこには柿の木ほどの木があり、見たことのない果実がたわわに実っていた。果実をとってナイフで切ると、赤褐色の皮のなかに種がぎっしり詰まっている。いまでは日本でもおなじみのパッションフルーツである。あとで考えればパッションフルーツはトケイソウの一種であり、大きな木であるはずはない。何かの木にからみついていたのだろうか。ついで道端の誰かの家の壁にヘチマのようにぶら下がったココアの実を観察した。そして運転手はどこかの家の庭に入り、なんの変哲もない灌木を指さした。シナモン(肉桂)である。彼がナイフで樹皮を削ると、シナモン・スティックができあがった。また壁の向こうからはみ出ている枝にぶら下がっているのはクローブ(丁子)の実(花蕾)だった。そういえばインドネシアのスパイス諸島(マルク諸島)を訪ねたときにこのクローブやナツメグ(ニクズク)を見かけた。もともとオランダ東インド会社がクローブやナツメグを独占していたが、フランスが種子を盗んでモーリシャス島に植えたという。その後クローブはザンジバルのペンバ島で栽培され、世界有数の生産地となった。タンザニアが貧しい時代、数少ない収入源だった。

 タクシーはブブブという美しいビーチが近いことだけが取り柄の殺風景な場所についた。かつてアメリカ人によって建設されたストーンタウンのアラブフォートとブブブを結ぶ軽便鉄道があった(1905~1928)という。私たちはここのフジ・ビーチバーという地味な「タヴェルナ」でビールを飲んだ。昔、鉄道建設のために来ていたエンジニアのホンダ氏が地元の娘と恋に落ち、ここに暮らす決心をしたという。ザンジバルに住んでいた日本人は(あとで述べる)からゆきさんだけではなかったのだ。このフジから、ビーチもフジ・ビーチと呼ばれるようになった。ほかに見るべきものはないが、ブブブというファンタジー的な語感が私のお気に入りになった。しかしいまネットを見ると、このブブブにはいくつかの絶景つきのビーチリゾートホテルができていた。ハネムーン旅行は絶対ここにしようと思う。もちろん来世での話だけれど。

 ブブブから地図で見るとそう遠くないところにキディチやキズィンバニの「ペルシアの浴室」があった。遠くはないといっても森の中のガタゴト道を走るので、けっこう時間がかかった。しかも車の前で子牛が道をふさぐかたちになり、車はスピードが出せなかった。道のわきに一歩よけたらいいのに、いつまでも車の前を前方向によろよろと駆けていった。道が曲がれば、その方向に走っていった。「なんて愚かな牛なんだ」とわれら三人は笑い飛ばしたが、考えるに、われわれも似たようなものだ。一歩横に踏み出せばいいのに、いつまでも問題の前でウロウロしている。

 この「ペルシアの浴室」についてネットで調べると、それが建てられたのはなんと1850年だという。「なんと」と驚いたのは、私は西欧列強(最初に来たのはポルトガル)やオマーンよりもずっと前のペルシアがやってきたときの遺跡だと思い込んでいたからだ。豪華な宮殿は消え、皮肉にも浴室とトイレだけが遺跡として残った……と感慨無量だった。実際は200年近く前にスルタンのサイードが第二夫人のビント・イリッチ・ミルザ(あるいはシェサデ)に狩猟やプランテーション視察のあとの休憩場所として贈ったものだった。夫人の祖父はペルシアのシャーだったので、ペルシャ・スタイルの浴室を気に入ってくれると考えたのだろう。

 翌日は英国人カップルとボートに乗ってプリズン島(チャングー島)へ行った。20分余りの所要時間だったような気がするが、地図で見るとストーンタウンのすぐ沖合である。ボートが走っているあいだ、ずっとイルカがまわりで飛び跳ねた。歓迎のジャンプだ。ここのビーチはとても美しく、ヌーディスト・ビーチもあった。白人女性たちが胸をあらわにして砂の上に寝そべっていた。

 小さな島(800×230m)でまわりは海に囲まれているというのに、ウミガメではなく、巨大なリクガメがたくさん、おそらく100匹前後が生息していた。林の中をそれらがのそのそと歩いているのだ。手のひらの何倍もあるまわりのカシワのような木の葉をあげると、亀はおいしそうにムシャムシャと食べてくれた。このリクガメは、1919年、英国の総督セイチェルズがチャングー島に贈ったアルダブラ環礁(セーシェル諸島)のリクガメが繁殖したものである。アルダブラゾウガメは、ガラパゴスゾウガメにつぐ世界第二の大きさの亀だという。重量は200キロ以上。相撲の力士なみだ。

 この楽園のような島を楽しんでいる者に恐怖を与えるのは通称の由来となっている刑務所跡だ。監獄の跡があり、受刑者の足につけていた鉄球や鎖も残っていた。しかし実際はそれほど長く使われていたわけではない。1860年代、ここはそれまで無人島だったが、スルタン・サイードが反抗的な奴隷を閉じ込める場所として刑務所を建てた。最終的には彼らを奴隷貿易船に乗せるか、ストーンタウンの奴隷市場で売りに出した。1890年、ザンジバルは英国の保護領となり、翌年、英国の第一首相がチャングー島を買い取り、ザンジバル政府のために、奴隷刑務所を壊し、凶悪犯および再犯者の刑務所を建てる計画を進めた。刑務所は完成したが、実際に使われることはなかった。そして1923年にはここは黄熱病をはじめとする伝染病患者の隔離施設となった。

 現在、ストーンタウンの奴隷市場跡(アングリカン・カテドラルが建っている)は観光スポットとなっているが、私が訪ねた当時はまだ一般に開放していなかった(あるいは私が知らなかった)。じつはこの大聖堂建設は、リビングストンの奴隷売買反対運動の賜物である。リビングストンの死の一か月前(1873年)、ザンジバルのスルタンはついに奴隷貿易の廃止を宣言した。ここでは毎年4万人もの奴隷が売買されていたというのだから、たいへん大きな市場であったのはまちがいない。黒人奴隷はアラブ、ペルシア、インドなどへと売られた。奴隷貿易がなくなっても、奴隷制はなおも存続していた。非ムスリムの黒人はたとえばザンジバルの輸出の主力だったクローブ生産(とくにペンバ島)の労働力として重宝された。

 英国人カップルと別れたあと、私はストーンタウンのからゆきさんがいたとされる建物を見に行った。『ザンジバルの娘子軍(からゆきさん)』(白石顕二著 1981年)という本に詳しく書かれているが、どうやってここに流れ着いたのか、日本人売春婦十数人がここにいたのである。なんの変哲もない古いアパートだった。上陸した英国やドイツの水兵さんの目に留まりやすい位置にあるのだろう。近くの骨董屋で私はメイドインジャパンの茶碗や急須を買った。茶碗にはかすかにご飯粒がこびりついていた。もしこれが彼女らのものであったとするなら、ご飯粒ひとつひとつに望郷の念がこもっているように思われた。もっとも、これらの持ち主が華僑である可能性のほうがはるかに高いけれど。

 1964年、革命軍がストーンタウンの街のすみからすみまで荒らしまわると、オマーン・スルタンのハリファ2世は湾内に留めていた自分のヨットに逃げ込み、そのままモンバサに逃げ、そのあと英国のボーンマスに亡命した。モンバサ(ケニア)はスワヒリ海岸の大中心地だった。

 私もまた、船でモンバサへと向かった。いい加減な旅人であった私は、ダルエスサラーム⇒ザンジバルとザンジバル⇒モンバサがおなじくらいの距離であろうと気軽に考えていた。しかも両者とも乗るのはおなじような汽船だと信じていた。

 モンバサ行きの船がダウ船であったのは、ちょっとしたサプライズだった。あこがれのダウ船を見るだけでなく、それに乗るのである。もちろん帆だけで外洋を長距離走ることはできない。ヤマハのエンジンを搭載していた。それでも20時間近くかかるとは、夢にも思わなかった。

 百人か二百人かわからないが、乗客は船底にぎっしりと詰め込まれた。外国人(アフリカ人やアラブ人以外)観光客も十人か二十人はいるはずだが、確認できなかった。乗船して必要だったのは、「自分の寝る場所を確保すること」だった。私も自分のバックパックを抱くようにして寝そべった。体を起こしていると、自分の領地が狭くなってしまうので、とりあえずは寝るときの姿勢をとった。目の前には何本かのスワヒリの女たちの念入りな刺繍(刺青)が入った足が動いていた。いろいろな幾何学的な模様があり、目を楽しませてくれた。外洋に出ると波が高くなり、船体がゆっくりと揺れ、波しぶきがかかってきた。ときにはザブンと大量の水が降ってきた。陽がとっぷりと暮れると、真っ暗になり、気温も低下した。潮っぽい水で着ている衣服がびっしょり濡れると、しだいに寒さを感じるようになった。正直、食べるものもなく、飲料水すらなく、トイレにも行けず、ゴールの見えない我慢大会みたいになってしまった。夜遅く着くのかと思っていたが、着く気配すらなく、未明に着くのだろうと思いなおしたが、やはり着かず、正午を過ぎてかなりたってから、ようやく港が近くなったという雰囲気が生まれ始めた。結局私は20時間近く飲み食いなしで、用足しすらしなかった。トイレはあったのだろうけど、何人もの人を乗り越えて行く気になれなかった。ベンガル湾のロヒンギャ難民船や地中海の難民船もこんな感じなのだろうか。2020年2月もロヒンギャ難民船が一隻沈没している。転覆前のゲロまみれの混みあった船内なんて地獄そのものだろう。(⇒ロヒンギャ秘史)また、十年余り後、ミャンマーのマンダレーからミッチーナへ27時間の列車の旅をしたときも似たような状況になったが(その話は後述)ともかくこのときはじめて限界を超えた壮絶我慢の旅を私は経験したのだった。

 モンバサ港に着いたときは、羽根が生えて天空に舞うことができそうなほどうれしかった。地獄から生還したのは私だけでなく、数人(ほとんど西欧人)の仲間がいた。だれもが過激テロ組織から解放されたかのように、表情は晴れ晴れとしていた。

 私はモンバサに長居はせず(ほんとうは2、3日とどまりたかったけれど)ナイロビ行きの列車に乗った。たまたま座席が近かった英国人の女の子と仲良くなった。彼女はとても美しく、ブルック・シールズそっくりだった。はじめ、どう見てもブルック・シールズだったので、話しながらそうでないことを確かめなければならないほどだった。私が出会った三大ブルック・シールズのひとりである。ノンカイ(タイのメコン川沿いの町。対岸はラオスのビエンチャン)で出会ったスコットランド人の女の子もブルック・シールズに似た美人だった。もうひとりは、インド・ヒマチャルプラデーシュ州の山中にあるボン教(チベットの宗教)の難民の村ドランジで出会ったカナダ・ケベック州の女の子。彼女とはしばらくの間ここでいっしょだった。彼女の母語はフランス語なので英語はイマイチな感じだったが、ボン教の若いお坊さんたちが彼女から英会話を習おうと殺到するのがおかしかった。執着(しゅうじゃく)というものは、なかなか断ち切れないものである。 
 もちろん三大ブルック・シールズといたって、勝手に主張しているだけで、実際は全然似ていないだろうと言われるかもしれない。たしかに、西欧人女性をよく知らないからこそ、ひとつのイメージ、あるいは固定観念で見てしまいがちなのだ。それにブルック・シールズという名前があがるのも、世代の現れともいえるだろう。世代によってはそれがリタ・ヘイワーズかもしれないし、エリザベス・テイラーかもしれない。
 固定観念で見てしまいがちなのは、しばしば経験することだった。たとえば、私はよく旅先でイスラエル人と親しくなり、一緒に行動することがあった。中国の地方都市で中東系の顔立ちのイスラエル人の青年と歩いていると、彼を見かけた中国人は一様に「美国人(アメリカ人)だ」とひそひそ声で話すのだった。西欧人をよく知らないからこそ、外国人がみなアメリカ人に見えてしまうのだ。ちなみにそのイスラエル人はアメリカ人と間違われ、私といっしょに清真寺(モスク)に入ることができて喜んでいた。本国は言うに及ばず、ほかの国でも、ユダヤ教徒がモスクに入るなんてことはありえなかったのである。