(3)ウォレスの第二の故郷、テルナテ島へ。そしてティドレ島へ 

                   宮本神酒男 

 さて話を香料諸島に戻そう。私のつぎの上陸地点はテルナテ島だった。地図でインドネシアを見ると中央より右上にKの形をしたスラウェシ島がある。その右上にやはりKの形をしたやや小さめの島がハルマヘラ島。それに左側に付随する大島ほどの小さな島がテルナテ島で、そのすぐ下にあるほぼおなじ大きさの島がティドレ島だ。最近もテルナテ島付近を震源とする地震(20153月、20197月)が発生していることからもわかるように、この島にはガマラマ山という活火山が鎮座している(1980年に噴火している)。テルナテ島は火山島なのである。私がここを訪れたのは、ここにVOA(オランダ東インド会社)の香料諸島の本部があり、ウォレスもここを拠点として長く滞在し、あちこちに行っていたからである。

テルナテ島にはテルナテのスルタンがいて、南隣のティドレ島にはティドレのスルタンがいた。テルナテ王国は、16世紀にはスラウェシ島からニューギニア島にまで及ぶ広大な地域を領土に収めていたこともあった。一方のティドレ王国もハルマヘラ島南部をはじめテルナテに負けないくらいの大きな領土を得ていた。またテルナテ王国がオランダとべったりであったのに対し、ティドレ王国はスペインを味方につけて対抗した。これらのスルタンたちが権力を維持できたのは、クローブ(丁子)という宝石、いわば儲かる香辛料を持っていたからだった。それは黄金以上の価値があるとされた。インドネシア産のガラム(クローブを混ぜたクレテックと呼ばれる独特のにおいを持ったタバコ)でもくゆらせれば、黄金の時代がよみがえってきそうである。

 なぜティドレ島に行ったのか、ぼんやりと覚えている。島の南岸の埠頭までぶらぶら歩いたら、ちょうど10人くらい乗れる高速艇が(ティドレ島へ向かうということすら知らなかったけれど)出発するところだったので、飛び乗った。その理由を問われたならば「太陽がまぶしかったから」と答えるほかない。光り輝く海面や緑色の島の森、白い浜辺などを見て魔法にかかったような状態になったのだろう。

 ここで、冒頭に戻る。私は何の変哲もない小さな漁港を見て、なぜか感動する。風光明媚というほどでもない特徴のない漁港がわけもなく気に入ったのである。ここはティドレ島だった。さらに歩いていくと、小さな浜辺があり、指呼の間にメイターラ島という小さな島が浮かんでいた。洗面器を頭にかぶった漁師はこの浜にいたのだ。ただし画像検索して調べると、この浜辺は白浜どころかグレイに近い暗色の砂浜だった。おそらく記憶の中で美化が進み、美しい浜辺に変化していたのだろう。

 日が沈む頃にはテルナテ島に戻り、夕方、屋外の市場の人込みのなかを歩いた。私はここで檳榔(びんろう)の実、石灰、キンマの葉のセットを買っている。実際試してみるとまるでタバコのニコチンやタールを口に入れたみたいでとうてい味わいを楽しむことはできない。(とくに南部の)台湾人、パキスタン人、ミャンマー人らがあれほど愛好しているのだから、よさというものはあるのだろうけど、どうしてもわからない。

 この夜だったと思う。市場で働く年配の女性を撮ろうとしたとき、背後からものすごい勢いでだれかが体ごとぶつかってきたのである。振り返ると、地元のイスラム教徒のおじいさんだった。相手がおじいさんなので、殴り返すわけにもいかない。女性を写真に撮ろうとして地元の人たちに猛反発を食らう、ということはそのあともたびたびあった。たとえば2007年、パキスタン北部の原理主義的なパシュトゥン人が住むスワート地方で、ガンダーラ時代に建てられたストゥーパの傍らで、薪を頭の上にのせた女性を撮ろうとしたところ、200メートル離れたところで見ていた男たちがすごい勢いで走ってきて私を取り押さえようとしたことがあった。「写真は撮っていない、ストゥーパを撮っただけだ」と言い張ってなんとか難局を乗り切った。イスラム教徒だけではない。マハークンブメーラのとき(2001年)女性修行者の列を撮ろうとしたとき、ヒンドゥー教徒の男の修行者たちから体当たりされたことがあった。世界には写真撮影を嫌う人々が一定数いるのはたしかだ。相手の気持ちを考える思いやりの心は必要だ。しかし写真撮影に意義があるという信念があるなら、そういった人々の妨害にもめげない強さもまた持っていなくてはならないのだ。

                           (宮本神酒男)