広州でタクシーが中央分離帯に激突、顔が金網にめりこみ、人間餅網に (1992年)

                         
宮本神酒男 

 

(1)激突 

 広州市内で空港へ向かうべく私はタクシーを拾った。道はやや混んでいて、運転手はあきらかにいらだっていた。前を走るヴァンが邪魔だった。そのヴァンが急に右にハンドルを切ったので(中国は右側通行である)チャンスとばかりタクシーは空いたスペースに入ろうとした。「なぜ今出るんだ!」私は心の中で叫んだ。その瞬間、目の前に何かが現れた。中央分離帯の始点である。道が狭くなり、そこから中央分離帯のフェンスがはじまっていたのだ。

このまま中央分離帯の左側を走ると、逆走になってしまう。右にハンドルを切ると、すぐ後ろの車と接触しかねなかった。運転手が一瞬躊躇した瞬間、タクシーは中央分離帯の始点にまともに激突した。私の顔は運転席と後部座席を仕切る金網に激しくぶつかった。めりこんだといっていい。幸い、メガネが身を挺して(つまり粉砕されながらも)私を救ってくれた。タイ北部山岳地帯の川を流されたさいにメガネを失い、チェンマイの店で買ったお気に入りのメガネである。金網が目にかからなかったのはラッキーだった。下手をすれば眼球がつぶれるところだった。しかし顔を激しくぶつけたということは、頭部を強打したということにほかならなかった。私の頭はしびれ、意識は朦朧とした。30分か40分かわからないけれど、頭の中に張られた糸が切れないように、ひたすらじっと耐えた。そのまま意識を失うとまずいんじゃないかと本能的に思ったのだ。私は両膝の間に頭をうずめたまま、身動きしなかった。

 ようやく意識が戻ってきた。置かれている状況をなんとか認識することができた。私はゆっくりと顔をあげた。驚くべきことに数十人の人だかりが車のまわりを囲っていた。ここは高速道路ではないものの、幹線道路であり、歩行者は近づきがたいはずなのに。人混みがざわざわしているのがわかった。「お、生きているぞ」と話すのが聞こえた。怖いもの見たさで彼らは集まってきたのだろう。死んでいるのを期待していたのかもしれない。

 運転手の姿はなかった。運転手の野郎がいない! 逃げたのか! そこに別のタクシーがやってきて、扉が開いてその運転手が近づいてきた。

「大丈夫か? オレは近くの電話ボックスから病院に電話をする。そしたら戻ってくるからオレのタクシーで病院へ行こう」

 この運転手はてきぱきとしていた。タクシーの色がおなじだったので事故車とおなじタクシー会社に所属していると思われるのも都合がよかった。もちろん日本人からすればこの流れはいささかおかしい。まずは救急車を呼ぶべきではないのか。携帯がなかった時代とはいえ、近くに電話ボックスくらいはあったろうから、だれかが救急車を呼ぶべきだった。病院では傷の治療をしたあと、CTスキャンで頭の具合をみるべきだろう。頭部を打っているにもかかわらず、私は検査を受けなかった。

 人民病院で私は椅子に座り、医師に傷口を縫合してもらった。どうも信じがたい話なので、私は記憶を再確認しなければならない。五十歳前後の白衣の男の外科医は、芸術家気取りなのか、タバコを吸いながら傷口を縫ったのである。指がヤニ臭かったのをよく覚えている。タバコで消毒されるとでも思っているのだろうか。笑みを浮かべ、私に話しかけながら繊細な作業を行っていた。傷自体はたいしたことなかったのだろう。頭部を強く打っていることのほうがはるかに重要であり、深刻な問題なのだが。
*当時住んでいた香港・長洲島の床屋で髪を切ったことがある。主人(理髪師)はタバコを吸いながら、ハサミで髪を切っては少し離れて芸術家のようにすがめに見つつ、ヘアスタイルを整えていった。まるでロダン気取りだった。いや、髪を切るのがロダンだったら、私は喜んで彫刻になっただろう。たまたまかもしれないが、同時期に医師と理髪師がタバコを吸いながら、芸術家気取りで作業をおこなったのは奇妙なことだった。

 


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