リョーリフのスピリチュアル・ジャーニー 

2章 神秘主義に魅せられて 

 

 1916年秋まで、芸術家、考古学者、歴史家、人類学者として広く認知されていたニコライ・リョーリフは、絵を描き、文章を書き、教え、旅をし、発掘し、ペトログラード(サンクトペテルブルク)という名で呼ばれる世界でもっとも美しい都市に住んでいた。彼とその家族は繁栄を謳歌し、彼の未来は輝いているように思われた。成功は約束されているはずなのに、レーリヒは苦しんでいた。肺炎を患ったあと彼の健康状態は思わしくなく、町中は革命前夜の社会の不安定さが支配し、恐怖や不安、何かが起こりそうな雰囲気がみなぎっていた。鉄道の駅は兵士たちでごった返し、何百万人のロシア人が移動しようとしていた。

 ニコライに対し、ボルシェビキ政権から高い地位を用意するという提案があった。理想的に、論理的に見た場合、共産主義には仏教と類似した面があった。両者とも大衆の人生を向上させ、よりよいものにすることを望んでいたのである。しかしより現実的に見た場合、この提案を受け入れたとき、芸術家としての自由を失うという対価を払う可能性があった。どうすべきか迷ったとき、答えを与えてくれたのは、おそらく彼の主治医だった。都会の空気は彼には害であるとアドバイスしたのである。子ども時代がそうであったように、いまもきれいで凍るような空気が必要だった。都市から離れるため、と同時に、近くにいるため、彼とエレナはフィンランド国境から遠くないラドガ湖近辺の松林の中にある一軒家を借りた。

 エレナは茫洋と広がる困難を見た。親戚はロシアを離れるのは狂気じみていると考えたが、ふたりは息子たちを呼び戻し、革命が燃え立ち始めた1916年12月17日、フィンランドに向けて旅立った。カレリア地峡を通って現在はフィンランド支配下のラドガ湖に至る暖房のない列車に乗って、彼らが毛布にくるまりブルブル震えていたとき、気温は零下25度だった。永遠に去ろうとしているという印象を与えたくなかったので、彼らは考古学的遺物のコレクションやヨーロッパの芸術品の数々、先祖伝来の家宝などを残していった。最初、ペトログラードとラドガ湖間の通行を妨げるものはなかったが、アカデミーがリョーリフ教授に注意を喚起したので、彼はただちに出発した。1918年5月、国境は強固に閉じられていたが、彼らは無事に国を出ることができた。

 すべてのものを捨てたふたりは、スピリチュアルな研究の正確さを証明するために、創作に身を捧げなければならなかった。急速に故郷を覆いつつあった暗雲から来る心の痛みと絶望にもかかわらず、彼らは創作活動を始めた。自分たち自身を道具として用いて、つねに努力を怠らず、失敗を糧に辛抱を重ね、物質世界のエーテル、すなわち人の目には見えない、現実世界を取り巻く微妙なものを発見するようになった。超常現象、すなわち情緒的、精神的、魂の体の本質や現れを体験したあと、存在の目的や、人間の成長および運命の法則を理解するようになった。

 仏教や神智学を含むスピリチュアルな教えを研究し、織り合わせるうちに、次第に新しい理解と真実が姿を現してきた。暗雲がもっとも厚く垂れこめていた時代も、精神的な平和が彼らの心をいたわってくれた。何年ものち、当時の痛みを思い出し、探りながら、リョーリフは書き記した。

「われわれはすべての偉大な宗教的原理をおなじ黄金の糸で精神的な甲冑に編み込むタペストリーを鍛えて造るのだ」

 それはよく役に立つ甲冑だった。人々はのちにリョーリフに神秘主義者というレッテルを貼るが、彼自身の見立てによれば、彼は科学者であり、生命のミステリーを研究し、解析し、探求しているのだった。

 家族はフィンランドで安全に過ごすことができるはずだった。しかし周囲の雪に覆われた岩によって、ニコライは偉大なるヒマラヤの峰々の夢を見ていた。彼の真の目的地は、霊性と光輝の古代の地、マスターたちと神智学協会の故郷、インドだった。東方研究に明け暮れていた頃から彼らがあがめていたのはインドだった。ヴェーダ、ウパニシャッド、バガヴァッド・ギーターが書かれたのも、ブッダが悟りを開いたのもインドだった。リョーリフ夫妻にとってそれは「光の国」だった。

 『シークレット・ドクトリン』の前書きでブラヴァツキー夫人は、アレクサンドリア図書館が壊されたとき、70万冊の古代の聖なる知識の書物が世界から失われたと書いている。マハトマたちは失われたものを懸命に探し出し、この宝をアジア中に隠そうとした。大アクバルの治世の間に、無限の価値がある一部の写本はインドに秘匿された。その他の写本はチベット西部のカラコルム山脈の向こうや隔絶したクンルン山脈の奥の地下や洞窟の書庫に隠された。リョーリフ夫妻はこれらの地域を探検したいと願った。「探検」というアイデアは次第に増殖しはじめた。それに小さいころからニコライはカンチェンジュンガ山をいつの日か見てみたいと思っていた。その美しい山容の写真が夏の屋敷の壁に飾ってあったのだ。

 リョーリフは日記のなかで頻繁に人生の比喩として山脈のことに言及している。「卓越した達成のためには崇高なる環境が不可欠である。表現しがたいほどの光輝を放ち、さまざまな絶妙な形をした、征服されていないヒマラヤ山脈ほど威厳ある存在があるだろうか。巡礼者は苦闘しながら登り、善良に向かって、より強く、より純粋に、より多くのインスピレーションを得ることになるだろう」

 疑う余地なく、彼らの目的地はインドだった。彼らは北インドへ、ヒマラヤへ向かい、隠された知識を探すことだろう。そしておそらくマスターたち(大師たち)の故郷を見つけるだろう。

 しかしながら大きな障害物が彼らの行く手に立ちふさがった。王冠の宝石と考えられた富裕なインドは、ツァー(皇帝)が支配する帝国ロシアとビクトリア朝大英帝国との間に勃発した覇権争い「グレート・ゲーム」の賞品だった。前の世紀、それは重要な役回りを持っていたが、ロシア革命とともにふたたび「グレート・ゲーム」の時代が幕を開けたのである。植民地インドは英国人によって厳しく統制されていた。彼らはボルシェビキが大英帝国の領域に浸透するのをひどく恐れていた。ロシア人はほとんど入域を許可されることはなく、外交的なチャンネルで使えるものはなかった。適切な証明書もなく、財政的な支えもなく、リョーリフ夫妻の夢がかなう可能性はほとんどなかった。

 ロシアを出てからというもの、彼らの日々は心配だらけでやせ細るばかりだった。というものも、取るものもとりあえずといった感じで逃げ出したのであり、お金も荷物のなかに詰め込んだものだけで、物々交換したり、売ったりするようなものもなかった。そしてすぐにお金の心配が生活の大きなウェイトを占めるようになった。

 しかし奇跡がもっとも必要なとき、だれかが、あるいいは何かがやってくる、という繰り返し現れるパターンが彼らの人生にはあった。それがいまも起こったのである。ある日エレナが町で買い物をしていると、ひとりの紳士が彼女を探し当てて、ローンの提供を申し出たのである。夫婦は彼の申し出を受けることにするのだが、お金を借りるのではなく、絵を売ることにした。すると彼は絵を購入するだけでなく、ストックホルムで展覧会を開くようアレンジしてくれたのだった。

 展覧会が終わったとき、トマス・ビーチャム卿からの招待状が届いた。じつはビーチャム卿は英国オペラに自分の運をすべてかけた人物だった。ビーチャム卿はリョーリフにコベント・ガーデン(ロイヤル・オペラハウス)の舞台デザインを依頼したいと考えていた。そして友人のセルゲイ・ディアギレフの助けもあったので、ニコライは提案を受け入れることにした。1919年、彼らはスカンジナビア半島を横断し、ロンドンに到着した。*『ヒマラヤに魅せられたひと』では展覧会はコペンハーゲンで開かれたとされている。同書はまた、リョーリフをロンドンに招いたのはディアギレフとしているが、当時の情勢を考えれば英国人の有力者のバックアップがあったはず。




(つづく)