救世主教的

ヌールバフシュ派のひそやかな魅力

                       宮本神酒男

1 マフディー(救世主)

 イスラム教のカルト。

 そんなものがありえるだろうか。
 私はマフディー(救世主 Mahdi)を崇拝するムーブメントは、十分にカルト的だと考えている。19世紀、イスラム教から飛び出してひとつの宗教として独立したバハーイー教はその典型だろうが、もはやイスラム教ではない。

 パキスタン北部のバルチスタンでチベット文化の残滓を探しながら、私は同地域に深く根を下ろすイスラム教ヌールバフシュ派が気になり始め、次第に魅せられるようになった。このシーア派から派生したイスラム教の宗派は、神秘主義的で、スーフィズム的であるとともに、救世主教的なのだった。

 アリーの幻影と話をするなどの神秘体験を通じ、自らを救世主と定義づけ、使命を確信し、さらに教義を広めようとしたのは、イラン北部のホラーサーン生まれのムハンマド・ヌールバフシュ(13921464)だった。

 マホメット(ムハンマド)をさしおいて救世主を名乗るなど、許されるのだろうか。たしかにかなりきわどい位置にあったといえるだろう。有名なペルシアの殉教者スーフィー、マンスール・ハッラージュ(857922)を思い起こそう。ハッラージュは「われは真理なり」と述べて、処刑された。真理は神だから、「われは神なり」と宣言したに等しい。ハッラージュ研究の第一人者ルイ・マシニョン(1883−1962)によれば、その真意は「神はわが内にあり」ということなのだが、為政者は危険思想の匂いを嗅ぎ取ったのだった。

 ヌールバフシュが処刑されなかったのは、ハッラージュほどには政治的影響力を持たなかったからだろうか。それにしてもカルトとも見なされかねない小さな宗派が、カシミールを通じてラダック、そしてバルチスタンへと伝播し、いまもなお生き残っているのは、それこそ奇跡的といえるものだ。

 マフディー(救世主)ということばは、とくにシーア派が好む。

 685年、ムフタールを中心として、初代イマーム、アリーの子ムハンマド・イブン・ハナフィーヤをマフディーとして擁立し、スンニー派(スンナ派)のウマイヤ朝に対し反乱を起こした。これがマフディー第一号だろう。

 このように、初代イマームのアリーとその息子で3代目イマームのフサインを含む12人のイマームを崇拝している点が、シーア派の際立った点である。11代目イマームが逝去したあと、12代目らしき少年が葬儀に現れるが、なぜか忽然と姿を消す。いわば「お隠れ」に入ったと信徒からは見なされ、代理人が隠れイマームと信徒との間を取り持つようになった。ところが代理人もまた後継者が4代目で途切れてしまった。こうしてシーア派はこの世の終末直前に隠れイマームがマフディー(救世主)として再臨し、人々を救済すると信じるようになった。

 マフディーと認定されるためには、さまざまな条件がある。そのあたりの事情をよく示す一節が、ヤロスラフ・トロフィモフの『包囲されたメッカ』(2007)にあった。この著書は1979年、一部のイスラム教徒が、サウジ王家は腐敗しているとして反旗を翻し、メッカを占領するというイスラム社会を震撼させた事件を描いたドキュメント本である。反乱軍はムハンマド・アブドゥッラー・アル・カフタニをマフディーとして担ぎ出した。カフタニの弟サードが仲間に語った場面。

 サードが出し抜けに言ったことばはホゼイミを驚愕させた。
「おれの兄さんがマフディーの条件を満たしていることに気づいたかい?」
「どういうことだい?」
「いや、まあ、ムハンマドという名前が預言者とおなじだし、
(預言者のように)アブドゥッラーの息子でもあるのだ」とサードは説明した。
 サードの兄は色白で、背が高く、広い額、突き出た鼻を持ち、頬には大きな赤い徴があった。(略)しかしマフディーは預言者とおなじ血筋でないといけないのではないか?

 (略)サードは誇らしげに、家系はじつはトルコの貴族の出自だ、と答えた。その家系は直接預言者につながっていた。つまり
(預言者の家系である)クライシュ家とつながっていたのである。(Yaroslav Trofimov “The Siege of Mecca”

 以上は、証言をもとに作者が会話を再現したものである。ムハンマドという名はイスラム社会では一般的だし、クライシュ家とのつながりも、どうにかこじつけることができそうな気もしてしまう……。ちなみに1883年にスーダンで起きたマフディーの乱の指導者もムハンマド・アフマドであり、名はムハンマドである。

 ヌールバフシュも、名はムハンマド・ヌールバフシュであり、第一の関門をクリアしている。そして母は、偶然か、上述の反乱軍のマフディーとおなじく、トルコの王族の家系に属していた。父はアラブ系だった。著名な神秘主義哲学者イブン・アラビーは、マフディーの両親はアラブ人とアジャミー(ペルシア人かトルコ人を指すとヌールバフシュは解釈した)であるべきだと主張した。ヌールバフシュは名前も家柄もマフディーの条件をクリアしていたことになる。

 外見もマフディーであることを示していた。わし鼻、明るい眉、薄い髪、敏感な鼻、アラブ人の骨格、ユダヤ人の肉付き……。そして何といっても右頬の四角いホクロが決定的な証拠だった。またマフディーであることを宣言する年齢が40才であること。実際は30代そこそこだったのであるが。

 ヌールバフシュのシャイフ(師匠)であるホワージャ・イシャーク・フッタラーニーの見た夢も、彼がマフディーであることを裏打ちした。

「夢の中で、あなたの足は光でできていました。それが行くところすべてを照らすのです。世界はその光によって照らされるのです」

 この夢によって、ヌールバフシュが神と神が作り給うたものとの触媒の役割を担うことがあきらかになった。

 占星術や数秘学もヌールバフシュがマフディーであることを示していた。またエジプトの大スーフィー、アブダル・ラフマーン・クライシーが「マフディーはイスラム暦795年ムハラムの月の27日に生まれるだろう」と預言していたが、まさにその日はヌールバフシュの生誕の日だった。

 預言者ムハンマドの義理の息子アリーとの出会いは決定的だった。もちろんそれはアリーの実物ではなく、幻影である。ヌールバフシュは語る。

「私が迫害に悩み、苦しんでいた頃、アリーが私のもとにやってきたのです。私は立ち上がり、歓迎し、アリーと肩を抱きあいました。そしてアリーは私の隣に腰掛け、こうおっしゃいいました。おまえの事業はおおいに前進し、成し遂げられるだろう、と。私は泣きながら尋ねました。いつ、どうやってそれは成し遂げられるのかと。アリーはおっしゃいました。いつとは言えないがその時はかならずやってくる、と」

 ヌールバフシュはマフディーおよび聖者性に関する象徴的な夢を見る。その下敷きとなった夢は、イブン・アラビーの夢だ。

 夢の中でイブン・アラビーは金と銀のブロックで造られたカーバの神殿を見る。よく目を凝らすと、金と銀のブロックひとつずつが欠けていた。彼はそれらが自分自身であることに気づいた。自分(ブロック)をはめれば、カーバの神殿は完璧となる。

 この夢を解釈し、イブン・アラビーは、自分の役目が神の使徒であることを悟る。自分を通して神は聖者性の徴を示すのだ。

 ヌールバフシュが見た夢は、あきらかにイブン・アラビーの夢の影響を受けている。夢の中に「神以外に神はなし、ムハンマドは神の使徒なり」と金色に書かれた壁と、「ムハンマドとその後継者に祈祷せよ」と銀色に書かれた壁が現れる。これらの文字が人間化したのが自分であるとヌールバフシュは悟る。

 ヌールバフシュはこのように、自らを聖者性の徴を持つマフディーとみなすようになる。ヌールバフシュにとって、マフディーとは、ムハンマドの精神的本質の顕現だった。マフディーは、ムハンマドの転生ではなく、あくまでも投射(buruz ブルーズ)だと考えていた。

 しかしそれだけでなく、ヌールバフシュは自身を十二イマームの魂の受け皿だと考えていた。シーア派の本流からすれば、それはあまりに傲岸不遜にすぎ、一線を越えているとみなされかねなかった。バハーイー教の先駆的存在であり、カルトと呼んでもいいような異端的宗派になりつつあった。

 とはいえ、マフディーは異端であってはならなかった。ヌールバフシュは宗派間の調停役を買って出ようとした。復活、天国、地獄……それらについて宗派間でつねに意見が食い違ったが、説明の仕方が違うだけで、本質はひとつであるとヌールバフシュは考えていた。

 またムスリム社会に害を与える毒についてヌールバフシュは真剣に考えていた。それらは不和、疑い、暴君と腐敗した学者たちである。彼はマフディーとしてそれらをどうやって除去するか、日夜頭を悩ませていたのだ。


⇒ 2 ヌールバフシュの宇宙観