オカルト・アメリカ 

イントロ オカルトとは何か? 

       (そしてそれはアメリカで何をしているのか?) 

 

宗教の歴史は、文学や文化の歴史のように、天才、あるいは類まれなる人間のミステリーによってつくられる 

 

 1693年夏、哲学者ヨハネス・ケルピウスと信奉者の小さな一団は故郷のライン川渓谷から逃げ出した。この地域はかつて政治的に独立し、霊性を信じた秘教的な人々の聖域だった。しかし三十年戦争の間、ハプスブルク帝国によって押しつぶされ、荒廃し、いまや焦土の地と化していた。

 神秘主義者たちに保護されていた21歳のケルピウスは、ライン川回廊地帯の紛争を生き抜くと、ドイツ人の巡礼者たちを率いて新世界へと向かった。その数は40人にも満たなかったが、はじめ陸上を徒歩で移動し、それから船に乗って5か月間の旅に耐えた。フランスと英国の軍艦が激しい戦火を交えている大西洋上よりも、天候は気になるものの、このコースのほうがずっと危険が少なかった。

 1694年6月末までに彼らは当時500軒ほどの住宅から成っていたフィラデルフィアの町に到着した。彼らは町の郊外のウィッサヒコン川の森に囲まれた川岸に定住した。そこでいくつかの洞窟を利用し、12平米ほどの木造の礼拝堂を建て、修道院のような清楚な生活を送った。礼拝堂の屋上には望遠鏡を置き、星空を観察し、聖なるしるしを探した。太陽光のもと、あるいは炉の明かりで、彼らは占星術、錬金術、秘数術、秘儀的キリスト教、カバラー、その他の哲学など――それらは彼らに故郷のことを思い出させた――を学んだ。新しく来る者たちは、森の中の礼拝堂の活動に参加するためにアメリカにやってきたようなものだった。

 1708年にケルピウスは肺結核を患って死去するが、そのあとの何年かの間に、彼らはペンシルベニア州エフラタに大きなコミューンを形成した。

 ニュースは漂いながら旧世界に戻っていく。神秘主義思想家および神秘的な宗教――ルネッサンス期に盛んになり、のちに迫害された秘教的ムーブメントの残滓――は、安全な港を発見したのである。そして宗教生活の革命がはじまり、そのことは地上のあらゆるところで感じ取ることができた。モルモン教からセブンスデー・アドベンチスト教会、はたまたクリスチャン・サイエンスまで、アメリカは信じられないほどさまざまな種類の宗教の分派を受容した。

 こうして育ったムーブメントはしだいに大きくなり、19世紀から20世紀にかけてのスピリチュアリズムに多大な影響を与えるようになった。神秘主義的な哲学や神話および伝説、そして「見えない世界」がわれわれにもたらす力やわれわれを通じて発揮されるその力に対する信仰があった。それはオカルトという名で呼ばれた。

 アメリカのオカルトの教師や伝達者――華やかで、すぶとく、しばしばとことんまで独学した男女――は、リアルであろうと想像上であろうと、ステレオタイプ的な、権力にかまけた者たちすべてを粉砕した。神秘主義的な、あるいは魔術的な考えを、自己陶酔的な力や道徳的な自由を得るための手段と見ることはなかった。社会的進歩や個人の改善というありそうもない倫理であることを強調した。こうした宗教的な過激論者は、伝統的な教会の外側で活動し、歴史の場面のなかで見落とされ、無視されながらも、若い国家を治療学的な、斬新な精神性の実験台に変えた。この精神性は、19世紀や20世紀の地球上を一掃し、東洋の神秘主義の伝統をふたたび活気づかせた。