オカルト・アメリカ 

1章 サイキック・ハイウェイ 

 

しかしながら、聖なるブドウ園の労働者に新しい秩序ができること自体、われわれアメリカの選民の歴史のなかでも、望外の喜びにあふれていることが証明されている。

                  米西部の記録(1825年)から 

 

 理性の時代とは、尋常でない宗教的信念が――あるいはその信念をとがめられている人々が――理にかなっているように思えるということにほかならない。

 1782年、スイスは西欧最後の魔女裁判を許可した。それによって家政婦が拷問を受け、断頭台に送られることになった。
 1791年、ヴァチカンは伝説的なイタリアのオカルティスト、カリオストロに異端とフリーメイソンの活動の罪で死刑判決を言い渡した。刑の執行は猶予されたが、自称「エジプト神秘主義の大司祭」は4年後、審問刑務所のなかで病死した。

 18世紀の英国に、アン・リーというシンプルな名を持つ若い女性がいた。うるう年に生まれたという彼女は、産業都市マンチェスターの自分の生地であるトード・レーン(カエル小路)にそのまま住んでいた。彼女は魔術的な幻視について述べ、予言を語った。少女は――シェーキング・クエーカー教徒、あるいはシェーカーとして知られる過激なキリスト教分派に属していた――黒魔術を用い、社会を混乱させたかどで追い回され、打たれ、刑務所にぶちこまれた。

 当局は彼女や他のシェーカー教徒のこの世のものとは思えない激しい憑依状態を見て驚愕した。彼女らはトランス状態で旋回し、ぶるぶる震えた。彼女はしかし、こうした憑依から不運な死を遂げることはなかった。アン・リーは逃走したのである。

 1774年、いまやマザー・アンと呼ばれる女は8人の信者と取り巻きとともに乗船し、リバプールを出港し、ニューヨークに着いた。8人には不誠実な夫も含まれていた。4人の子供が生まれ、死んだときも、夫の浮気に彼女は苦しまなければならなかった。

 言い伝えによると、船はほとんど嵐の中転覆するところだった。しかし荒波が船首に激しくぶつかり砕け散っていたのに、アンはぞっとするほどの平静さを保っていた。彼女は船長に、嵐はまもなく過ぎ去るから心配することはないと告げた。彼女はマスト上に「ふたりの輝く天使がいる」と述べている。船は難破することはなかった。

 ニューヨーク市で卑しい仕事に骨を折ったあと、巡礼者たちは――いまやアンの夫を除いてもたったの12人になっていた――なんとか生活費を稼ぎ、1776年にはニューヨーク州ハドソンバレーのオールバニに程近いニスカユナという沼地が多く、土瘤(こぶ)だらけの原野にちっぽけなコロニーを作った。十二使徒は――彼らは自分たちを十二使徒になぞらえた――そこを「知恵の谷」として聖別した。

 200エーカーの痛々しい、沼地だらけの土地には、冬は凍てつく風が吹きさらし、夏はぬかるみの多い蚊がはびこる原野に変貌した。隣人たちは風景以上に敵対的だった。マザー・アンとシェーカー教徒たちは――全員まちがいなく平和主義者だったが――英国の同調者かスパイであるという腹立ちまぎれの噂が生まれていた。独立戦争の当局者は扇動の罪でオールバニの宗教リーダーを一時的に収監した。

 シェーカー教徒の布教グループがマサチューセッツのピーターシャムに行っている間に、30人の市民がマザー・アンを捕らえ、この独身の婦人を全裸にするという屈辱を与えた。表面上は彼女が英国の情報員であるかどうかを明らかにするために拘引したものだった。ある者は彼女を魔女、異端者として非難した。(「魔女ではなく、罪があるだけ」とマザー・アンは言い返している) 

 しかし、奇妙にも、小さな宗派は――独身主義で、清貧で、激しい労働とわずかな憩いの生活に浸ったグループは――勢力を増していった。

 1780年のニューヨーク州北部の極寒の冬のあと、ニューレバノンの農場共同体のふたりの男がハドソン川を渡って、初春、雪解けとともにシェーカー教徒の定住地にやってきた。男たちは地域で多数を占めていた、復興したバプティスト派のひとつの信者だったが、自分が属する宗派に失望していた。彼らは「女性の姿で戻ってきたキリスト」と称せられるその女とどうしても会いたかった。

 荒野のなかにマザー・アンと彼女のコロニーを見つけたとき、生き残りがわずかであることを知って男たちは驚いた。そしてマザー・アンに、彼女の神秘的な教えやこの分派独特の修練の噂についてたずねはじめた。分派のメンバーは予言を語り、死者の幻影を見、聖霊にとりつかれて踊り、跳躍し、叫ぶ、と聞いていたのである。

「われわれは世界をさかさまにすることができるのです」とマザー・アンは謎めいた言葉を述べたという。

 男たちはニューレバノンに戻り、森の中の人々に言葉を広めた。すると好奇心をいだいたより多くの人々がニスカユナへ向かった。そして奇妙なできごとによってマザー・アンの世界に人が集まることになる。

 1780年5月19日、ニューイングランドの大半の地域が「暗黒の日」を経験する。日中、空がミステリアスに暗くなり、太陽光がにじむように消えたのである。火事が発生して野原が焼かれたのが原因と考えられるが、アルマゲドンが来るのではないかと大騒ぎになった。

 「世界の堕落」についてマザー・アンが発した警告が、突然予言ととらえられるようになった。そして多くの人が彼女を信仰するようになったのである。シェーカー教徒にとってそれは予測された事態だった。マザー・アンは前年、信者たちに食糧を備蓄しておくよう命じていたからである。

「私たちにはたくさんの仲間ができますが、つぎの年がやってきても大丈夫なように備蓄をしないといけません」

 ニューレバノンはすぐに大きなコロニーに成長し、よごれのない白亜の建物や整然とした庭、レンガ造りのミーティングハウス――シェーカー教徒はこれらで有名になる――が作られた。

 マザー・アンは1784年に逝去するが、彼女の影響力は生前よりも死後のほうが増大することになった。1830年代後半は「マザー・アンの仕事」と呼ばれるシェーカー教徒の熱狂的で深奥な、影響力を増した活動期間の幕開けだった。

 亡きリーダーは他界の霊的導師として、膨大な超常的な活動や指示を信者に与えつづけた。シェーカー教徒の村々は――いまやはるか南のケンタッキーにまで広がっていた――歴史的人物や滅亡したインディアンの部族の霊の訪問を記録している。熱心な信者たちは霊的な幻視や歌を受け取ったと記している。それらは奇妙なことに、美しい絵画や忘れられない讃美歌として、いまもその多くが残っているのだ。

 村人たちは一晩中つづいた集会で、外国語をしゃべり、床の上をのたうちまわり、転げまわった。「霊からの贈り物」として見えないワインやインディアンのタバコ(訳注:現代のタバコよりもマリファナを想像してほしい)をもらい、酩酊状態の者もいた。降霊会や(降霊会の)テーブル操作、死者との対話などの心霊主義の流行はまだやってきていなかったが、シェーカー教徒は、死後の存在がまもなく「すべての町、村々、地上のすべての宮殿や屋敷にやってくるだろう」と予言していた。そしてシェーカー教徒の村の手入が行き届いた庭の外で起こっているできごとがその予言の通りになっていることを示していた。