オカルト・アメリカ 

2章 神秘主義者たち 

 

目下の世界は新しい宗派の哲学者たちに汚染されている。自分たちが新しい宗派を形成していることに気づかず、したがってそれに名前をつけていない哲学者たちに。彼らは古いものすべてを信奉する者たちである。

 

 現在のマンハッタンの西47番街は――煤で汚れたオフィス・ビル、警笛の洪水、ディスカウント宝石屋の露店が歩道に並ぶ細い通りは――心霊革命誕生の地には似つかわしくないかもしれない。しかし19世紀後半、この薄汚れた通りは、400年前のルネッサンスの大理石宮殿がそうであったように、花咲くオカルト主義の舞台としてこれ以上ふさわしい場所はなかった。

 1876年夏、髭を生やした弁護士であり、いまだに大佐と呼ばれる南北戦争の元将校だった男は人生における決定的な時期を迎えようとしていた。尊敬されるべき法律専門家は、宗教的に保守的な、米国聖公会の牧師の娘である妻と離婚したばかりだった。その過程で、父親の選択した新しい生活に従おうとしなかった、というより理解できなかった息子たちと彼は縁を切った。

 彼の名はヘンリー・スティール・オルコット。何十年かのち、仏教国家のセイロンは郵便切手に彼の肖像が描いて記憶にとどめ、彼の命日を国民休日に指定した。インドのヒンドゥー教も彼の誕生日を祝するという。もしアメリカのオカルト主義に(絶壁にワシントンら4人の大統領の顔が彫られた)ラシュモア山のようなものがあったなら、彼の顔はそこに彫られただろう。しかし彼の名は、本国ではすぐに忘れ去られてしまった。

 のっぽで、眼鏡をかけた、マトンチョップ髭(ふさふさしたモミアゲ+口髭)という風貌のため、44歳という年齢よりずっと老けて見えたオルコットは、ニュージャージー州オレンジの保守的な長老教会派の家庭に育ったという雰囲気を醸し出していた。しかしその立派な風貌の下には世界の秘密を知りたいという情熱が隠されていた。実際若い時分からその願望を心にいだいてきたのである。

 12歳の少年のとき、彼はポキプシーに巡礼の旅をした。そこで彼は二階建ての建物の階段を上り、まだ十代だったアンドリュー・ジャクソン・デイヴィスが病人の髪の毛の束を両手でかかえ、千里眼として完璧な診断を下している場面を目撃した。その光景を彼はけっして忘れなかった。

 15歳のときニューヨーク大学に入学したものの、ビジネスマンだった父が破産してしまったため、一年で退学せざるをえなくなった。彼はオハイオ州の親戚を訪ね、農業に挑んでみた。畑仕事を終えたあと、親戚は好奇心をそそる珍しいことをはじめた。つまり降霊会、心霊主義、テーブル・ラッピングなどと呼ばれる活動である。この流行はニューヨークのバーンドオーバー・ディストリクト(ニューヨーク北部)のサイキック・ハイウェイにはじまり、曲がりくねった道を進みながらも、ついに西部の農業地帯にまで達した。

 オハイオの農地ではオルコットの野望を満たすことはできなかった。数年のうちに彼は故郷に戻り、ニュージャージー州ニューアークの農業学校で働き始めた。まもなくして親戚のひとりがこの世を去った。オルコットはその遺産を使ってニューヨーク州のマウントバーノン(現在はバージニア州)近くに実験農場を開いた。そしてここで運命の風が彼を持ち上げることになる。

 若い農業家は、米北部の気候に適応したと思われる中国サトウキビの系統を育てるノウハウを得ることができたのだ。戦争の脅威がメイソン・ディクソン線に迫り、北部は南部に頼っていた砂糖の収穫のルートを失うのではないかと危惧し始めた。

 1857年、25歳になろうとしていたオルコットは、彼が輸入したソルゴと呼ばれるサトウキビ(モロコシ)の利点を強調した研究論文を書き、それが広く読まれることになる。ソルゴは今も人工甘味料としてアメリカ人に消費されている。彼は大学をドロップアウトし、降霊会に顔を出していたオハイオの農民の少年から、たちまち科学的農業のワンダーボーイとなった。州議会や外国の政府さえもがこの少年にアドバイスを求めたほどだった。

 南北戦争が勃発したとき、オルコットの名声は新しい段階に入った。もっともと通信将校に任命されていたが、まだ若者であったオルコットは調査、計算に秀で、お金の流れを追う才能があることを示した。彼は軍の契約者のなかで、不正や詐欺を働く者の監査と調査を担当する部署に置かれた。彼は偽の食糧の密売をあばきだし、北軍の損失を防ぐことができた。そして陸軍長官エドウィン・M・スタントンに、この努力は「政府にとって戦争に勝利するのとおなじくらい重要」と書いた手紙を送った。調査官としての彼の名声は高まった。

 1865年、リンカーンが暗殺されたとき、オルコットは奉仕を買って出た。スタントンはニューヨークにいる彼に「至急調査員とともにワシントンに来てください」という電報を打った。12日間、逃走をつづけていたジョン・ウィルクス・ブースをオルコットと調査員たちは捕らえ、この陰謀の容疑者を尋問した。(訳注:このリンカーン暗殺犯に関することは確認できない)

 戦争のあと、政府と頻繁に接触していたオルコットは法律について勉強し、ニューヨーク市に法律事務所を開設した。落ち着いた家庭を持ち、日曜夕食会や紳士クラブ、弁護士の高給、そして地方事務所の運営といったことを期待することができた。

 しかし彼は落ち着きをなくすようになった。彼は法律の仕事を休み、ニューヨークの新聞に文化レビューや調査に関する記事を書いた。戦争前にはそうしたことを半分道楽気分でやっていたのだ。心霊主義に対する興味がよみがえってきたのもこの頃である。とくにバーモントの屋敷で起こった奇妙なできごとのレポートには心を奪われた。

 1874年秋、オルコットはニューヨーク・デイリー・グラフィックの記者としてバーモント州チッテンデンの薄気味悪い農家の家に何度か足を運んだ。そこにはウィリアム・エディという霊媒が、アシスタント役の弟のホレーシオとともに、毎晩、アメリカン・インディアンから遠い地や古い時代からつぎつぎとやってくる独特の衣装や高級服を身にまとった幽霊のようなものを人々に目撃させていた。

 幽霊のようなものはウィリアム・エディが坐っていた木製飾り棚から現れた。信じやすい人々は、飾り棚には扉も抜け穴もないと証言した。オルコットが運命的な出会いをしたのはまさにここ、バーモントの「幽霊農家」だった。この出会いから生まれた衝撃は彼だけでなく、世界中に走りぬけることになる。

 10月14日の陽ざしの暖かい日中、オルコットはエディの家のベランダに足を踏み入れて、新しい訪問者のタバコに火をつけた。この奇妙な巨体のロシア女に彼は即座に魅せられた。彼女は新しい傷を見せながら、これはイタリアを統一するために戦っている革命のヒーロー、ジュゼッペ・ガリバルディのそばで戦闘中に負ったものだと説明した。

 彼女はエキゾチックな異国の地の旅行の話をした。そして毎晩エディの家でまぬけな人々に明かされる話よりも、魂の世界の本質のほうがより深い真実を含んでいることをほのめかした。オルコットは困惑した。そしてそれ以上にとりこになった。大学ドロップアウト組の彼は、「たぐいまれな教育を受けた、天賦の才能を持った、高貴な生まれのロシアの婦人の到着」に、畏怖の念を感じていたように思われる。彼は「オリエントのほとんどの地を旅して回り、ピラミッドの基部で古代の遺物を探し、ヒンドゥー寺院の秘儀を目撃し、武装した警護兵とともに、アフリカの奥深くまで分け入った」などと彼女が語る物語に驚嘆した。

 彼自身の成長とこの神秘的な婦人との強い絆から、1876年の夏の終わり、彼はマンハッタンの8番街西47丁目の騒々しい街角へといざなわれることになる。目的地は古びた5階建てのアパートだった。それは現在ほとんど目立たない安ホテルであり、当時からさして立派というわけでもなかった。しかしこの建物こそ大佐が借りた8つの部屋のアパートだった。

 彼自身にとっても。友人の婦人にとってもサロンであり、本部としても使うことができた。ニューヨーク・ワールド紙は冗談めかしてチベットの僧院にひっかけてそこをラマ僧院と呼んだ。そこは剥製のヒヒや日本の飾り棚、ジャングルの壁絵、機械製の鳥、棕櫚の葉などでごった返した狭苦しいネバーランドだった。ニューヨークのスピリチュアルな冒険好きの面々――発明家トマス・エディソンからアブナー・ダブルデイ大尉まで――が立ち寄り、論じたり、主張したり、古代の思想に驚いたりした。

 若き日のエディソンはオルコットに彼が作った念の入った装置について話した――片端は彼の額に、もう片端は振り子につけて――これによって心の運動エネルギーをはかるのだという。1920年までにエディソンはレポーターに、彼が「この世を去った人々とコミュニケーションをすることが可能かどうかを見る装置を作ろうとしている」と述べている。もしエディソンが装置を完成していたとしても、それを大衆に明かすことはなかっただろう。

 野球の普及に努め、南北戦争では司令官だったダブルデイは新しい知人たちの前でカルマについて講演した。彼に言わせるとカルマの考えは彼に戦火の勇気を与えてくれた。ダブルデイはまたフランス人魔術師エリファス・レヴィの19世紀の古典的オカルト作品『儀礼と高級魔術の教義』(『超越的魔術』の名で知られる)の英訳を出刊行しはじめた。

 オルコットの家族や友人にとって、もし彼の新しいルームメイトが書きもののためにつきあっている雑多な霊媒のひとりにすぎないとしたら、この大仰なセット全体が異様にすぎた。しかしむしろ風変わりといったほうがよかった。共同生活をしている婦人は――彼は情熱的な感情をいだいてはいたが、ベッドをともにすることはなかった――ヘレナ・ペトルヴナという名の、丸々と太った、人を暗示にかける目を持ったロシア人士官の娘だった。いや、世紀末文化のなかで有名になるマダム・ブラヴァツキーの名のほうがなじみ深いだろう。魔術をつくり出し、神話をつむぎだす、オカルトの高級女祭司である。

 何年も遠路を旅して回り、このエキセントリックで、ヘビースモーカーの貴婦人は、1873年、アメリカの海岸にたどりついた。それからすぐに彼女はオルコットとエディの農家で出会ったのである。多くの人が証言するには、彼女は自由に心霊術的な、あるいは超常的な現象を見せることができた――見えないベルを鳴らし、魔法のように絵を出現させ、ポルターガイストのような「初歩的な霊」の騒がしいいたずらを起こさせた。ラマ僧院の特別な夜、食後のコーヒーのための角砂糖バサミが見つからないとき、ブラヴァツキーは角砂糖バサミの幻影を物質化してみせた――オルコットの用語でいえば「現象が生みだされた」のである。

 しかしこれは児戯に類することだった。ブラヴァツキーは、自分は宗教的大師、のちに呼ぶようになるマハトマ、すなわち「大いなる白い兄弟」の秘密の組織によってアメリカに派遣されたのだと主張した。(彼女の「白い」は人種を意味するのではなく、内的な純粋さを表している) 彼女の使命は心霊主義の限界とあやまった考えをさらし、より高みの真実への道を示すことだった。アンドリュー・ジャクソン・デイヴィスの宇宙の幻視を称賛しながら、ブラヴァツキーはポキプシーの千里眼(デイヴィスのこと)と彼のあとを追った霊媒師たちが推測するだけがせいぜいだった秘密の教えについてほのめかした。

 オルコットはブラヴァツキーとはじめて会ったあとすぐ彼女の東方の大師たち、すなわちマハトマたちからの黄金のインクで書かれた手紙を受け取りはじめた。それにはピラミッド型の暗号のような文字、あるいはルクソールの観測所、トゥイティット・ベイという名のサインが記されていた。オルコットはのちに、ウェストサイドのアパートの部屋の中にいるとき彼の目の前にターバンを巻いたマハトマたちが現れたと主張した。

 マハトマの手紙のひとつは、オルコットを「新入りの兄弟」と呼びながら、ブラヴァツキーのそばにいて、彼女を見ることなく一日たりとも過ごしてはいけないと命じていた。彼はよく耳を傾けた。ふたりは昼も夜もともに仕事をし、協力してブラヴァツキーの革新的な書『ベールをとったイシス』を書きあげた。それは濃密で、乱雑で、究極的にはオカルトの主題があふれかえるほど含まれる著作だった。

 ブラヴァツキーは世界中の古代宗教と宇宙の法則を統一する隠された教義があるが、物質的な科学や現代の宗教には知られていないということを語っていた。もっとも公正な言いかたをすれば、彼女とオルコットは仲間の探求者のためのサロンを、テオソフィア、すなわち「聖なる智慧」の再発見に捧げた初歩的な組織に変えたのである。

 それは神智学協会と呼ばれた。それは宗教そのものというより、宗教的普遍性を推し進めるために、宗教の内奥の深さを測ることを目的としたものだった。そして時の経過とともに重要性を帯びてきた最終目的は、東方の信仰、とくに仏教、ヒンドゥー教を鼓舞し、キリスト教の伝道や植民地主義から守ることだった。

 典型的な無遠慮なやりかたで、彼女はニューヨークのメディアにもてはやされるようになった。そしてマダム・ブラヴァツキーは宣言した。「神智学協会が意味するのは、もしそれがキリスト教徒を現代キリスト教から救うことができないなら、少なくともその影響から異端者を救う手助けをするということなのです」。ニューヨーク・サン紙はロシア人のマダムを受け入れることはなく、彼女に「8番街の著名な異端者」というあだ名をつけた。