老いについて    宮本神酒男 

 

痛恨の極み 独竜江の紋面女への懺悔 

 この数年でもっとも悔いるできごとをひとつあげるなら、15年ぶりに訪れた中国雲南省北西部の独竜江地域(独竜江はミャンマーの中央を流れる大河エーヤワディー川の上流)でのことである。思慮の足りない行為によって、私はある独竜(ドゥーロン)族の老女を傷つけることになってしまった。

90年代にはじめて独竜江に行ったときも、そして今回も、目的のひとつは顔に刺青を施した女性たちと会うことだった。なぜ彼女らは刺青を入れることになったのか。どうやって刺青を彫るのか。刺青によって生活はどう変わったのか。そんなふうに私の興味は尽きなかった。

最近私は、ミャンマー北西部の同様の習俗を持つチン族の高齢の女性たちと会う機会があったのだが、紋面女(顔に刺青を入れた女性)とは、不思議とうまがあうのである。おそらく社会のなかで差別される境遇にある彼女らにとって、私のように好意的に接しようとする人間は(私は少なくとも自分では好意的であるつもりだ)すぐにわかるのではなかろうか。

 独竜江地域は、さまざまな面で、15年前とは異なっていた。かつては独竜江に到達するのに、三日間歩いて、しかも3600メートルの峠を越えねばならなかった。いまでは町(貢山県)から独竜江までの公道が開通し、独竜江沿いにも車道が通っていた。もっとも、道路は中国でも有数の危険な道だった。道幅が狭いのに、ところどころ崖崩れによって道が壊れていて、大型車がすれちがうときなどは数百メートルの谷底を横目に見ながら、冷や汗をたっぷりとかかなければならなかった。

 旅の前半、私は独竜江に沿って(途中まで車道はあるが、すべて徒歩で)南下し、巨大な滝の下を腰まで激流につかりながら、流されないように渡り、深い森の中を歩いてミャンマー国境に達した。ミャンマー政府の検問所はなく、かわりにカチン州の民兵が取り締まっていた。カチンとミャンマー政府との間では、現在にいたるまで紛争がつづいているが、国境に中央政府の力が及んでいないのには驚かされた。

旅の後半は、トラックを乗り継ぎながら行けるところまで行き、残りは崖崩れだらけの車道を歩いて北上した。15年前は、ちょうど雨季がはじまり、豪雨のなか、川が氾濫し、水没した道(もはや道とは言えないが)を苦労して歩いたのを覚えている。そのときは食料が足りず、道で出会ったおばあちゃんから鶏を、魚釣りをしていた男性から魚を買って腹を満たしたものである。

 私は9人ほどの紋面女と会うことができたが、そのうちふたりはナムサと呼ばれるシャーマンだった。当時の独竜江は極貧の地域であり、鬱蒼とした森に覆われた峡谷だったが、彼らが変容意識状態で入ることのできる精神世界は、色彩豊かできらびやかだった。彼らともう一度会いたかった。しかし現地に入る前に彼らが存命していないという情報を私は得ていた。

 熊当(ションダン)村のクレンという背の著しく低い女性シャーマンは当時50代だったので、ほかの地域ならまだ生きていてもおかしくなかった。しかし粗末な家の中をのぞくと、家財道具も食料もほとんどない極貧生活ぶりがわかった。こんな生活で長寿がまっとうできるはずもなかった。

 私は2回目の独竜江行きの前に、動物学者アラン・ラビノヴィッツの『さいはての村の向こうへ』という著書を読み、そのなかのミャンマー最北端の「ピグミー族」についての記述に興味を持っていた。この「ピグミー族」はミャンマー・カチン州の北東部に住んでいるが、伝承によれば彼らはもともと独竜江の支流の地域からやってきたという。この支流のもっとも南に位置するのが熊当(ションダン)村だった。ということは、小さなクレンはピグミーなのだろうか。私はできればそのことについても確かめたかった。

 竜元という比較的大きな村に着いた。15年前、ほとんど肥溜めのような小屋のトイレで落っこちた記念すべき村である。屋外の茂みで用を足せばすむのだが、そのときはかなり激しく雨が降っていたので、屋根のあるトイレを使ったのである。肥溜め状の穴の上に半分に割った丸太が足場用に置かれていた。芯が腐っていたのか、わが体重を支えることができずに丸太は折れてしまった。すべてがスローモーションになった。水しぶき(いや糞しぶき)もゆっくりと放物線を描いた。トイレや肥溜めに落ちたときのこの世の終わりのような屈辱感は、経験した者にしかわからないものだ。

 この竜元にはおそらく20人くらいの紋面女がいただろう。5元の謝礼が出るという噂が広まり、多くの老女が宿泊先の旅社に押しかけてきたので、断りを入れなければならなかったほどである。

それから15年がたち、かなり生存者は減っているものの、まだ何人かは生き残っていた。さっそく村はずれの家にひっそりと暮らす老女を訪ねることにした。

 トウモロコシ畑を抜け、雑木林のあいだの空き地を歩いていくと、こぢんまりとした木造の家があった。外から呼ぶと、なかから声はかえってきたが、本人はなかなか現れなかった。老齢のために紋面の老女は立ち上がることができなかったのだ。

 彼女の顔を見た瞬間、私は身体がふわりと浮くくらいの喜びを覚えた。15年前、竜元にたどりつく手前の野原のなかの道で出くわした老女だったのである。彼女は私と会ったことを覚えていないだろうが、私はときおり写真を眺めることがあったので、そのときの様子を脳裏に焼き付けていた。カメラを向けると、壁に掛けた操り人形みたいに動作がかたまるのがおかしかった。それは彼女の性格のよさを表わしていた。

 そのときにもう年は70を超えていたので、現在は80代半ばということになる。この平均寿命が低い地域において、再会できるとは思っていなかったので、それは望外の喜びだった。しかし直後の私のふるまいは最悪だった。

 本人がしきりに見たがるので、私はビデオカメラのモニター画面を見せてあげたのである。よく村の子供たちが見たがるので、モニター画面を意図的に見せることがあった。彼らは画面に自分の姿を認めると、喜び、おおげさにリアクションするのである。

 しかし今回、画面を見るのは子供ではなく、老婆だった。家の中に鏡はなかった。自分の姿を見る機会は長い年月の間なかっただろう。そこに映っている皺だらけの老婆がだれかわからず、次第にそれが自分であることがわかっていく……。考えただけでもゾッとするような恐怖体験だ。しかし私は「この年にしてはかなり若く見える」と肯定的にとらえていたのである。迂闊というより、愚かだった。

 この家を出てしばらくすると、風に乗って声が聞こえてきた。それは泣き声というより慟哭だった。人生に残されたエネルギーを枯れるまでしぼりだしたような慟哭だった。私はそのときはじめて重大なあやまちをしでかしたことに気がついたのである。

 スマホやPC画面に自分の姿を映してみよう。若いときには、自分がどのように見えるかを気にするかもしれない。しかし年を取ってくると、そこに映る自分が本来の自分ではないような気がして、そっと閉じるようになる。この老女の場合、卒倒するほどのショックであったに違いない。

 引退間際のプロ野球選手を見ると、引き際というのはなんとむつかしいものだろうと思う。(実際ほとんどの選手は若くしてクビを切られてしまうのだが)「まだやれる」と回りが見て、本人もそう考えるうちに引退するのがいいという人がいる。一方で、最後まで力を出し切ってやめても遅くはないと考える人もいる。

 人生も似たようなものだ、と言いたいが、大きく違うのは、年を取りすぎたからといって、人間は人間を引退することができないということだ。もちろん不慮の事故や病気で寿命をまっとうできない人もたくさんいるが、病気だらけで全身苦痛でいっぱいなのに、生きながらえる人もいる。人は老いさらばえて醜くなってまでも長生きしたくないと考えがちだが、実際かなり年を取ると、ますます長生きしたくなることもある。

 竜元の老女の場合、おそらく体の自由がきかなくなって生きるのもつらいという状態にあったかもしれない。それでも何かささやかな楽しみがあり、それを支えに生きていたかもしれない。しかし私がそれをぶち壊してしまったかもしれないと思うと、慚愧の念に堪えない。


⇒ つぎ 

⇒ 独竜江を行く (地図あり) 








1996年、竜元村の手前の道で会ったときのチャーミングな女性。





15年後の2011年には彼女の家を訪ねた。80代半ばとは思えない若々しさ……と思ったのだが。