第2部 ブルシャ秘史  The Secret History of Bru-zha


バルチスタンの語り部が歌う「ソマレク故事」。主人公のソマレクは
ブルシャの英明な王サウ・マリクがモデルだったのではないか。
そしてチベットのボン教の聖人サムレクもサウ・マリクなのではないか。

 ブルシャはどこにあったのか。
 R・A・スタンの『チベットの文化』やスネルグローブ&リチャードソンの『チベット文化史』など一昔前の著作は、ブルシャはフンザだと断定している。前述のように、フンザで話される主言語がブルシャスキ語だからかもしれない。
 しかし現在では、ブルシャはギルギットを指すと考える学者のほうが多いようだ。ただしこの場合のギルギットとは、ギルギット地区のことであり、狭い意味でのギルギット市街のことではない。たとえばヤシンはギルギットの町からみると、フンザよりも遠いが、ギルギット地区の重要な地点だった。ブルシャスキ語を話す人々もギルギット地区全体に分布しており、もともとフンザに集中していたわけではない。

 ビッドゥルフによると、ギルギットの古名はサルギン(Sargin)だった。のちギリット(Gilit)あるいはグリット(Glit)という呼び名が一般的になった。ギルギット(Gilgit)という呼称が使われるようになるのは、ナトゥ・シャー大佐(Colonel Nathu Shah)率いるシーク教徒軍がギルギットを支配下に置いた1842年頃になってからのことにすぎない。しかしこれではブルシャという呼称が存在したのか、存在したとしてもだれが使ったのか、それすらわからない。おそらくブルシャという旧名が使われなくなってから久しいのだろう。

 ブルシャの歴史についてはすでに第1部で、中国の史書を基本資料として年表にまとめた。これにつづくのは、あるいは重なるのは、ギルギットのトラハーン朝(Trakhan)である。トラハーンは語源的にテュルクと関連があると思われる。(註:語源はテュルク語のtarqanで、勇敢さによって高位に就いた者の意)彼らはバルチスタンか中央アジアからやってきた(つまり二説あるということなのだが)テュルク系民族とされる。

 この王朝がいつからはじまったか、大きく分けてハシュマトゥッラー(Hashmatullah)説とシャー・ライス・ハーン(Shah Rais Khan)説の二説がある。これらの想定する年代は、なんと五百年も違う。

 まずギルギットの統治者の子孫であるシャー・ライス・ハーンの説から吟味していこう。

 その論をもとに、以下に王統表を作成した。

 

<ギルギット・トラハーン第一王朝の王統>

643659 シャー・アズル・ジャムシェド(Shah Azur Jamshed

     領土は、西はカフィリスタン、北はバダフシャンまで広がった。

     とくにカフィリスタンに注目。

659668 ヌル・バフト・ハトゥン(Nur Bakht Khatun

668723 ラジャ・カルク(Raja Kark)スリ・バダド(Sri Badad)の孫。

723793 ラジャ・サウ・マリク(Raja Sau Malik)治世は「黄金時代」。

領土はチトラルからフンザまで。王は拝火教徒、庶民は仏教徒。

793878 ラジャ・シャー・マリク(Raja Shah Malik またはGlit Kalika

     タタール軍に捕らえられ、タシケントに8年間幽閉される。

878932 デング・マリク(Deng Malik

932977 フスロ・ハーン(Khusro Khan)バダフシャンの王女と結婚。

 

 この王統年表を一瞥しただけで、いくつかの矛盾点に気づく。まず王たちの治世期間の異常なほどの長さ、寿命の長さ。たとえばラジャ・サウ・マリクの治世は百年に及び、なんと122年も生きた。フスロ・ハーンも37歳のとき即位したので、逝去したときは102歳だった。フスロ・ハーンの子ラジャ・ハイダル・ハーン(Raja Haidar Khan)にはじまる第二トラハーン朝(9971241)の王統にもまだまだ不自然な点がみられるが、第一トラハーン朝は神話時代であるかのように混沌をきわめている。

 つぎに気になるのは、シャー・マリクの時代の「タタール軍」だ。タタールといえば通常モンゴル系、テュルク系を指すが、この時代に攻めてきたのは唐軍である。もし歴史を反映しているとするなら、それは747年、高仙芝率いる唐軍が小勃律を攻略したことを示しているだろう。あるいはもっとあと(11世紀)、中央アジアからせ攻めてきたテュルク系のカルルク人を指しているかもしれない。

 このギルギット史を述べるシャー・ライス・ハーンは王統の末裔であるが、現在はイスラム教徒なので、その視点から過去を粉飾を施すということはありえるだろう。フスロ・ハーンがイスラム教徒と思われるバダフシャンの王女を娶ったとされるのも、その一例である。

 シャー・ライス・ハーンによれば、ラジャ・サウ・マリクの時代(723793)にバダフシャンのサイード・シャー・アフザル(Sayyid Shah Afzal)によってイスラム教がもたらされ、王族はみなイスラム教を信仰するようになったという。これはおよそありえない話ではあるが、数百年後、似たようなことが起こったのかもしれない。

 

 さて、私がとくに注目しているのは、トラハーン朝の黄金時代を築いたといわれるサウ・マリクである。これはあきらかにチベット名サムレク(bSam legs)だ。サムレクは訛ってソマレクと発音される。

 別項でも述べたように、私は一昨年バルチスタンで民間歌手の歌う、あるいは語る「ソマレク故事」を収集した。ソマレクはいわば文化英雄のような存在である。なぜソマレクに興味を覚えたかといえば、ソマレクの元になっているのは、ボン教の聖人ミル・サムレク(Mi lus bSam legs)ではないかと考えたからだ。ミル・サムレクは母タントラ系(マギュ)の典籍の編集者であるとともに、聖人のような中央アジアの王でもあった。その居城はカル・バチョ王城だった。この王城はブハラ(現在のウズベキスタンの都市)に築かれたのではないかとされるが、実際はバルチスタンの都スカルドだったのではないかと私は推測している。スカルドの城砦、カル・ポチョ城と名があまりにも似ているではないか。バルチスタンは歴史上何度かギルギットとおなじ支配者のもとに統治されているので、サウ・マリクがブルシャ・バルチスタンの王であっても不思議ではない。

 「ソマレク故事」の主人公ソマレクは、ラジャ・サウ・マリクであり、ミル・サムレクであった可能性が高い。

 ラジャ・サウ・マリクは、パキスタン国境に近いアフガニスタン東部カフィリスタンのバシュガル(Bashgal)の人々から、「精神的指導者(=神)」とみなされていたという。英明な君主だったのだ。年表に示すように、カフィリスタンはシャー・アズル・ジャムシェドの時代、すでにブルシャに属していた。カフィリスタンとは、そもそも非イスラム教徒の国という意味である。だから当然この神はアッラーではない。

 サウ・マリクのつぎの王はシャー・マリクである。ここには一種のトリックがある。サウ・マリクはサウム・リクであるべきなのに、あえてサウ・マリクと微妙に名前を変えた。マリクは典型的なイスラム名である。シャー・マリク(別名グリット・カリカ Glit Kalika)はさらにサウ・マリクからサウを抜き取り、モスリム名にしてしまったのである。こうしたイスラム化の粉飾がなければ、チベットの影がもっと色濃く残っていただろう。

もうひとつ重要な論点がある。シャー・マリクは拝火教徒、つまりゾロアスター教徒だったというのである。おそらくシャー・マリク以前の王もおなじ宗教を信仰していただろう。ただし庶民は仏教徒だったという。

 しかし本当にゾロアスター教徒だったのだろうか。というのは、カフィール人(カフィリスタンの人々)はゾロアスター教ではなく、複雑な民族宗教を信仰していたからだ。イムラ(Imra あるいはMara)を最高神とする神のパンテオンは、種類も豊富で、かなりスケールが大きい。宗教を支えるのは、ウタ(Uta)というシャーマン、デル(Del)という霊媒である。彼らは独特の神殿も持っている。

 ジェットマルやファスマンらによると、カフィールの宗教はインド・アーリアの宗教の原形とみられるという。神々の名称を比較すると、それはあきらかである。たとえば男の悪魔を意味するユシュ(Yush)はサンスクリットのヤクシャ(Yaksha)、女の悪魔ウートゥリー(Wutri)はヴァータプトゥリー(Vataputri)、イムラ(Imra)はヤマ(Yama)、イントゥル(Inthr)はインドラ(Indra)などに対応する。

神々の名称だけでなく、神話もまた類似している。たとえば天からロープか金属の糸でぶらさがった「巨人の家」をマンディが壊し、住人を殺すという神話があるが、これはシヴァがトリプラを破壊し、住人であるアスラを殺すという神話とそっくりである。カフィリスタンとインドが太古の昔において強いつながりがあったことは間違いない。

アフガニスタン側(地区名はヌリスタン)のカフィールは、近年ほぼイスラム化してしまったうえ、紛争中に多くの伝統が失われてしまった。パキスタン側では唯一、カラシャの人々がかろうじて独自の宗教の火を守っている。

 仏教以外にブルシャで繁栄していたのがゾロアスター教なのか、インドの古代宗教と関係の深いカフィールの宗教か、断定は避けたいが、いずれにしてもこれらがボン教の原形であるか、すくなくともボン教に多大な影響を与えたのではないかと私は考える。次章で詳しく論じたいが、ブルシャがボン教はもちろんのこと、チベット仏教に与えた影響は、はかりしれないものがあるのだ。

 

 ハシュマトゥッラー・ハーン説によれば、ギルギットのトラハーン家統治の時代は、シャー・ライス・ハーンの説よりも、五百年近くもあとのことになる。

 トラハーン家のライス(Rais)すなわち王であるアズルは、スカルドからやってきてフンザとナガル、それからギルギットを征服した。彼には三人の息子がいたが、うちふたりがフスロ・ハーンとシャムシェルだった。ギルギットの(前王朝の)最後の王スリ・バダドを矢で射殺したのはシャムシェルだったという。このシャムシェルがギルギットの王となり、スリ・バダドの娘ヌル・バフト(Nur Bakht)と結婚した。

 ハシュマトゥッラー・ハーンはシャムシェルの治世の時代を1120年から1160年頃と推定した。彼によればこの時期に6人のイスラム教の聖人がやってきたという。つまり12世紀にイスラム化したというのである。6人のうちひとりはサイード・シャー・アフザル(上述。バダフシャンから来たとされる)だった。

 ロリマー(Lorimer)は興味深い伝説を紹介している。それによるとスリ・バダドは天性のデウ(Dev)だった。(註:デウはインドのDeva、すなわち神と同語だが、この場合ゾロアスター教のダエーヴァに近いのではないかと思う)娘の名はヌル・バフトといった。彼には人肉を食べる習慣があり、人々はそれを忌み嫌った。ギルギット郊外のダンヨル(Danyor)には、デウ種がほかにもたくさんいた。アズル・ジャムシェドとふたりの兄弟もそのなかにいた。ダンヨルにはまたヌル・バフトの養父もいた。彼は兄弟に置き去りにされたアズル・ジャムシェドを引き取った。ヌル・バフトはヌル・ジャムシェドを見た瞬間、恋に落ちた。彼らはひそかに結婚し、アズル・ジャムシェドはスリ・バダドを殺し、王位に就いた。

 シャー・ライス・ハーンは、このアズル・ジャムシェドはノーシェルワン(Nausherwan)から来たイランのキヤニ(Kiyani)王子だと考えた。アラブ軍がイラン軍を破ったとき、難民となった王子はブルシャに逃れてきたという。ダンヨルで王子はジャタイドト(Jataidoto)というスリ・バダドの大臣と会った。彼はほかに4人の大臣と会ったとされている。彼らはひそかにアズル・ジャムシェドをヌル・バフト・カトゥンと結婚させた。彼女は息子を産んだが、木の箱に入れてギルギット川に流したという。そのためスリ・バダドはこの赤子のことを知らなかった。結局スリ・バダドは殺され、アズル・ジャムシェドが王位に就いた。

 これらの伝説は記録にはいっさい残っていないが、仏教徒の支配者からイスラム教の支配者へと交替していくさまが伝説によって表わされているのだ。

 

 つぎに、ハイダル・ハーンにはじまるトラハーン第2王朝を年表にまとめたい。

<ギルギット・トラハーン第2王朝の王統>

9971057 ラジャ・ハイダル・ハーン(Raja Haidar Khan

     フンザのシャー・ハタム(Shah Hatam)との間で戦闘も鎮圧。

10571127 ラジャ・ヌル・ハーン(Raja Nur Khan)家臣の間で内紛。

11271205 シャー・ミルザ(Shah Mirza

12051236 タルトッラ・ハーン(Tartorra Khan

      二人の王子シャフザダ・トッラ・ハーンとシャー・ライス。

      後継者争い激化。トッラ・ハーンの勝利。

12361241 女王タルトッラ・ハーン(Rani Tartorra Khan)。ダレル出身。

 

 第1王朝と同様、王の死亡時の年齢が百歳前後で、信憑性に疑問を抱かずにはいられない。ともかく、このあとも

 

トラハーン第3王朝 12411449

トラハーン第4王朝 14491561

トラハーン第5王朝 15611635

トラハーン第6王朝 16351800

トラハーン第7王朝 18001825

トラハーン第8王朝 18251840

 

 とつづいていき、シーク教徒、ドグラ軍の侵攻によってこの王朝はついに終焉を迎えるのだった。トラハーン氏の歴史は非常に興味深いが、古代ブルシャとは直接関係ないので、ここでは詳しく論じないことにしたい。

 トラハーン氏の繁栄がつづく間、ナガルにはマグロット氏(Maglot)、フンザにはアヤシュ氏(Ayash)、チトラルにはカトル氏(Kator)というトラハーン氏と近縁関係にある王統が誕生し、治めてきた。

 またヤシンとムストゥジ(Mustuj)はフシュワクト氏(Khushwaqt)、プニアルはブルシェ氏が治めてきた。

 バルチスタンの歴史、王統となると、ギルギットと同様、あるいはそれ以上に複雑かつダイナミックである。さらに厖大な紙数を費やすことになるだろう。またの機会にバルチスタン史をまとめてみたい。

 

 さて、次章ではチベットやボン教に多大な影響を与えたブルシャ出身のブル氏(ドゥ氏)について論じたい。

 

⇒ 第3章 ブル氏とブルシャ(上)
      ブル氏とブルシャ(下)