折々の  Mikio’s Book Club  

   宮本神酒男 

 

1回 小学校中退からレジェンド人気作家へ 吉川英治『折々の記』 

 このタイトル『折々の記(キンドル)』は、0円で買った吉川英治の随筆集の題をパクッたものである。吉川英治といえば、私は昔、名作といわれる『三国志』全八巻を読破したことがある。よく書けていると感心はしたけれど、文章が軽妙でうますぎて、深みがないように当時は思えた。

しかし最近『新・水滸伝』などを購入し(購入時99円、現在48円)読んで、はじめて吉川英治のよさ、すごさに気づいた。数編の代表作以外にも、0円の『折々の記』や『美しい日本の歴史』などの随筆集(雑文集)にも目を向けるようになった。

 『折々の記』を読むと、吉川英治(18921962)の人生、とくに前半生についてしみじみと考えさせられる。時代がいまと違うせいもあるが、吉川は低学歴コンプレックスを持っていた。何しろ小学校中退である。まるでインドの低カーストの少年のようだった。 

 吉川自身もこう語る。

 ぼくは中学生時代の味を知らずに来た。家庭の事情で望めなかったのである。いま考えても、あんな悲しい思いはない。小学校時代の旧友がみな中学服で通ってゆく。ふと、道で会ったりすると、少年労働者の身なりのぼくは、顔を赤くしてつい俯いた。

 小学校中退の学歴の持ち主が、どうしたら作家になれるのだろうか。そもそもどうしたら、なろうとするのだろうか。

 19歳のとき、吉川は横浜のドックで働いていた。私の現在の住居(台東区と荒川区の境界線近く)近くに延命地蔵というお地蔵さんがある。古くて擦り減った石碑を読むと、そこにはかつて船渠(せんきょ)があり、たくさんの人が事故で亡くなったと記してあった。船渠というのは、事故多発地帯だったのである。

 吉川少年はこの船渠で(横浜の船渠で)重傷を負ってしまった。

 幸いなことに、というのも変だが、十九の冬、ぼくは横浜船渠に入渠中の外国船の足場から、ドックの底へ墜落した。

 (……)高さ十数メートルの船底から、足場板もろとも落ちて行ったぼくは、塗料のレッド・ペンキを頭から浴びてしまったらしい。

 その姿は労働少年であり、たとえば三島由紀夫のような早熟な秀才作家の同年代の姿とは雲泥の差がある。

 30歳になっても、作家になるというような雰囲気はまったくなかった。その頃、吉川は家族とともに向島に住んでいた。近くに幸田露伴の「蝸牛庵」と呼ばれる家があったという。蛇足だが、ここはいま露伴児童公園になっている。幼児の「公園デビュー」にもってこいの砂場があるあまり風情がない公園だが、大きなカタツムリ(蝸牛)のオブジェが特徴的である。蝸牛庵にひっかけたものだったのである。

 その頃、ぼくは、職がなかった。履歴書をふところに、毎日、下駄を平たくして、向島から出歩いていた。

 30歳で無職の吉川は、母に、「だれがおまえの履歴書などをとりあげるもんですか」と言われる。

 なるほどと思った。ぼくの履歴書は、「学歴ナシ」と「賞罰ナシ」の二行しか書いていないのである。

 この履歴書の「学歴なし」「賞罰なし」はなんと悲しいエピソードだろうか。しかし世の中の大半の人は、吉川英治ほど極端な低学歴でなくとも、学歴コンプレックスを持っていることが多く、賞罰もあったとしてもさほど際立つものでもない。

 「年少の頃から貧しさにはきたえられてきた」と強がる吉川ではあるが、

 その年の暮れがせまる頃ほど、物質の窮乏ばかりでなく、精神的にも、いろいろな憂苦が、三十をまたぎかけているぼくへ襲い掛かってきたときはない。

 と弱音も吐いている。

 13、4歳の頃、吉川はすでに「税務監督局給仕」の職を得ている。当時は労働基準法もなかった時代だ。それからいろんな職業についたのだろう。そういった体験が作家活動に役立ったことは間違いないだろうが、同様の苦労をする人はたくさんいても、吉川のような人気作家になることはない。

 震災のとき、ぼくは東京毎夕新聞の編集部にいた。家庭部と学芸記者をかねていた。

 と記していることからすると、「学歴なし」「賞罰なし」の直後に新聞社の仕事を得ているようである。関東大震災は1923年に起きているが、この年吉川は31歳、数えで32歳である。このラッキーな(まあ実力があったからこそであろうけど)就職があったからこそ、どん底を振り返ることができたともいえるだろう。

 教訓めいたことをひとつ導き出すとしたら、職がなくても、金がなくても、学歴がなくても、絶望的になることもないということだ。吉川英治のように、小学校中退でも人気作家になれるのだ。

もっとも、後年の吉川が膨大な知識の持ち主であったことから考えるに、相当の自学を怠らなかったのはまちがいない。船渠(ドック)で働いていた頃から、まめに習作を書いていたにちがいない。吉川は、努力の大家でもあったはずだ。