折々の  Mikio’s Book Club  

   宮本神酒男 

 

第7回 超古代文明の真贋 狩野亨吉『天津教古文書の批判』 

 

 おそらく1989年頃のことではないかと思うが、私はわざわざ国会図書館まで足を運んで竹内文書を借り出し(館外持ち出し禁止)直接手に取って見たことがある。なぜこの年かといえば、いまネットで調べると、竹内文書について書かれた原田実著『幻想の超古代史 竹内文献と神代史論の源流』の発刊日が1989年11月となっていて、これよりも前だったと記憶しているからである。

 国会図書館へ向かう日の朝、私は興奮し、ワクワクしていた。当時、私は神代文字の存在を信じていて(いや、いまだって信じている)その文字によって書かれた古文書が偽書であるはずがないと考えていたのだ。それは本当の古代文書だが、斎部広成が『古語拾遺』(807年)のなかで述べた「上古の世に文字なし」の文字が漢字を指していることを頭の固い学者たちは理解できず、神代文字を認めようとしないのだと私は考えた。

 私はこの2年後、中国西南へ行き、ナシ族のトンバ文字やイ族のイ文字について学び始めるが、当時、基礎的な知識くらいは持っていた。これらの文字はいわば神官文字であり、トンバやピモといった祭司だけが読むことができた。一般民は読むことができなかったので、現代においてわれわれが使うコミュニケーションのための文字とは意味合いが違っていた。日本の神代文字も多くは宗教的な秘密文字なのではないか、だからこそ後世にあまり残っていないのではないかと私は考えていた。

 目の前に竹内文書を置き、ぱらぱらとページをめくっただけで、それがトンデモ本であることがわかった。古代からの王朝の名など、それっぽく書かれているが、数ページ読んだだけで何十もの不自然な名前や矛盾点が発見された。つまり、お話にならないのである。これから行こうとしている雲貴高原の名が見えるとうれしかったが、雲貴高原なんて名前が生まれたのは、遡ってせいぜい清朝だろう。有名な五色人というのも奇妙だったが、それがオリンピックの五色の起源だとするような噴飯物の論理展開が目立った。

 何よりも私をがっかりさせたのは、裏表紙の広告だった。はっきりとは覚えていないが、家系図のような巻物が高価な値段で売りだされていたのだ。この古文書(?)が竹内家の家系図であったか、ほかのものであったか、記憶があいまいなのでいま述べることはできないけれど、何か一種の詐欺商法のような気がした。このようにすべてにおいて胡散臭いのである。

 昭和初期において、天津教は危険なカルトとみなされていた。1930年(昭和5年)からの15年間の間に、竹内巨麿(18751865)ら天津教幹部は何度も特高に拘引され、不敬罪で起訴されている。これを一般的に第一次、二次天津教弾圧事件と呼んでいる。不敬罪が適用されていることからすると、内容の真偽よりも、現在の天皇の系統が矮小化されていることが問題とされたようである。

 天津教の古代文書の鑑定を行い、批判的な内容の『天津教古文書の批判』(1936)を書いたのは京都帝国大学の学長を務めた狩野亨吉(かのうこうきち 18651942)であった。狩野といえば、共産主義思想の先駆的な存在として知られる安藤昌益(17031762)の発見者として知られている。

安藤は、自ら直に耕して食い、独立の生活を営む農民は「一番貴ばなければならないはずなのに、つねに下にしかれて貧乏に苦しんでいる」、しかるに「不耕貪食の徒はつねに農民の上に位置し、安逸な営みをなしている」のはおかしいと考えた。これは毛沢東の農民によるプロレタリアート革命につながりそうである。またつねに自然と同調することを唱えた安藤は、同時代のルソーの「自然に帰れ」の思想とよく似た考えを持っていた。ただしルソーは自然に帰れとはひとことも言っていないが。(狩野亨吉『安藤昌益』これも0円本)

狩野亨吉が「発見」していなかったら、秋田藩出身の医者(八戸で開業)であった安藤昌益という存在は埋もれてしまっていたかもしれない。もし日本が共産国家になっていたなら、安藤昌益は国家の英雄として讃えつづけられたにちがいない。

そんな目の利く狩野ではあるが、天津教の文献の鑑定をおこない、その詐欺性を糾弾するにふさわしかったかといえば、少々疑問である。神代文字の音韻を調べ、現在の日本語と大差がないことからそれが新しく作られたものであると狩野は判断した。しかしそもそも見るからに虚偽にあふれた古文書を鑑定する必要などあったのだろうか。悪ふざけかと思うような文章を提示すれば、だれもが真偽を問う必要すらないと感じるのではないだろうか。

 ともかく狩野自身が天津教との関わりについて述べているので耳を傾けてみよう。

 昭和3年(1928)5月に、天津教信者2名が狩野の家を訪ねてきて、実物(竹内文書)の写真を贈り、本拠地の茨城県磯原への参詣を勧めたという。その写真を見て狩野は「欺瞞性を感知した」という。そして天津教は警戒すべしと手紙で知らせたが、彼らからは音沙汰がなかった。

 昭和5年12月、天津教関係者が取り調べを受けたとき、「皇室の歴史にたいして施したところの錯迷狂的加工を追求し、厳重の処分をなすべきだった」が、十分になされなかった。それでこりずに「シリアの石ころ、ピラミッド類似の山」などを出してきて、ますます宣教を試みたという。

 そして前の年(1935年)8月、日本医事新報から天津教古文書の歴史的価値について調べるよう依頼があり、手元の写真7枚のうち古文書に関する5枚の鑑定に取りかかったのだという。現物は、信者以外は見ることが許されていなかった。

 その結果、ことごとく「最近の偽造によるもので、まったく取るに足りないもの」であるという結論に達した。私が国会図書館で見たときとおなじ感想を持ったのである。しかし依頼者への返答は抽象的な言葉を選んだ。「人心を刺激する恐れがる」と狩野は思ったのである。

 しかしそうするうちに、軍人の間に天津教が広がる様相を呈しはじめたので、狩野はこうして批判書を著すことにした。この書のなかで、狩野はまず天津教についてまとめている。

 天津教は現に磯原に住する竹内氏が守るところの皇祖皇太神宮を中心として宣伝せられる思想の系統である。その主張を聞けば、武内宿禰の子孫はのち竹内と称し連綿千九百年、皇祖皇太神宮を奉戴してもって今日に及び、その間、あらゆる困難と迫害とを経て、なおよく神代より伝わった皇室関係の古文書および古器物を守護保存しているというのである。(……)外部への宣伝方法も穏やかで悪辣でない。(……)ゆえにこの教派ほど無難なものは珍しい。(……)そのかわりに古器物古文書を証拠として神代百億万年の歴史を展開し、もって皇室の規模を荘厳するに勉める。

 批判すると前置きしながら、ここまでは意外とマイルドである。病気治療をするといってお金をもうけたり、心霊現象を見せたり、財産を出させたり、男女の仲をとりもつようなカルトにありがちなことは一切おこなっていないが、歴史をおおげさにしているところがよくないと言っているにすぎない。現在の復活した天津教のサイトを見ても、その歴史を3千億年前からはじめるなど、常識を逸脱していて、天津教を宇宙的な永劫的な広がりをもった規模の大きな宗教に仕立て上げようとしている。

 しかし狩野はここから批判を強めて行く。写真5枚のうちの1枚は神社の縁起文であるが、この文章がなっていないという。文章の吟味の内容はあまりに細かすぎるので省かせてもらうが、それは古いというより拙いのである。考察の結果、この縁起文が素人によるものであり、菱湖の風を受けていることから推察して天保以前に遡ることはできないと結論づけている。

 つぎに長慶天皇御真筆と後醍醐天皇御真筆についても、さまざまな根拠から、明治末期に作製した偽物と鑑定している。

 また日根国、五色人などの用語について調べ、筆跡や花押などについても厳密に鑑定している。そして大日本天皇国太古大上々代御皇譜神代文字之巻大臣紀氏竹内平群真鳥宿禰書写真筆も明治時代の偽作だという。

 最後に狩野は暗号を解読するごとく、竹内文書の神代文字を読み解こうとしている。太平洋戦争の米軍の暗号解読担当官のように、狩野は見事に神代文字を解いていく。暗号解読ならぬ神代文字解読に、狩野は一か月を費やしたという。

 この文の末尾に天照太神即位八百万年正月元日の日付の御署名があり、これにつづいて素戔嗚尊、天思兼命、天兒屋命、天太玉命の副署があるという。であるからこの文書は神様の御書だという。

 しかし「文章の口調からみてどうしてこれが神代のものと考えられよう」と糾弾する。数字、即位、勧請、水門などの言葉も漢音であり、昔をしのばせる音はほとんどないと指摘する。この文章は「一見して近頃のもので、しかも拙劣な書きぶりである」と、一刀両断に述べる。漢音が多いことを天津教は気にかけず、漢音も日本が創ったとさえ開き直るのではないかと狩野は述べている。

 神代文字まで読み解いた狩野の執念は感服するが、正直なところ、天照即位800万年などをまともに批判するのはどうかと思う。なぜなら、もっともらしく見せるのなら、せいぜい1万年ぐらいにすればいいのだから。あるいはシュメール文明が花開いた5千年くらい前に設定していれば、多くの人が信じたかもしれない。

 800万年前や3千億年前といった荒唐無稽な数字を出してくるのは、裏を返せば、悠久で謎に満ちたこの大宇宙にあっては、人間的基準などどうでもいいことなのである。そういう大宇宙教的な面を強調すれば、この人騒がせなカルト宗教もまだまだ命脈をつなげることができるのではないかと私は考える。