パダムパ・サンギェとマチク・ラプドゥン 宮本神酒男

   
パダムパ・サンギェ(左)とマチク・ラプドゥン

 仏教カーパーリカの存在がチベットでどの程度知られていたのか、はっきりとはわからない。当時のチベット人からすると、彼らの過激な修行はヒンドゥー教のタントラというイメージがあったかもしれない。8世紀から12世紀頃、パーラ朝インドではタントラが発展し、ヒンドゥー教と仏教の境界がますます曖昧になっていた。

 カーパーリカそのものではないけれど(ドクロを持たなければカーパーリカとは呼べないだろうから)、墓場や火葬場での修行をパダムパ・サンギェおよびその女弟子マチク・ラプドゥン(
1031?−1129?)が仏教の修行法としてチベットにもたらしたときの衝撃はいかほどばかりであっただろうかと想像する。(註:パドマサンバヴァはその伝記によれば墓場で修行をしている)

 第二のブッダと呼ばれるグル・リンポチェ(パドマサンバヴァ)は、その知名度のわりには実態があまり感じられず、伝説的な存在である。チベット文化圏のすべてにその足跡を記し、魔女を調伏した岩とか、文字通り足の跡などが残されているが、どれも伝説以外のなにものでもない。

 そのグル・リンポチェ以上に伝説的で、かつ影響力もあるのに、一般的な知名度の低い人物といえば、パダムパ・サンギェだ。このインド人タントラ僧はなんと572年も生きたというのだ。

 パダムパ・サンギェは545年頃に生まれた。生まれる前、夫のいない間に身ごもったため、夫の怒りを避けようと、母は堕胎を目論んで川に飛び込んだが、成功しなかった。赤子はブッダのように美しかった。長じて彼はヴィクラマシーラ僧院で学び、アーリヤデーヴァのもとで出家し、カマラシーラという名をもらった。彼は生涯を通じて54人のマハーシッダ(大成就者)から教えを受けたという。

 このカマラシーラことパダムパ・サンギェは、ボーディダルマとして中国に布教したという。われわれに馴染みの深い禅宗の祖、達磨のことである。達磨も150年生きたとされるなど伝説色が濃いとはいえ、このパダムパ・サンギェ=ボーディダルマ説はとうてい受け入れがたい。

 二番目のパダムパ・サンギェは、サムエ寺で846年(一般には8世紀末といわれる)に摩訶衍と論争をしたカマラシーラだという。これもまたとうてい受け入れがたい説である。パダムパ・サンギェはタントラの実践者であり、カマラシーラのような学究肌の僧ではない。

 三番目のパダムパ・サンギェは1097年、チベットを訪ねた。これが5度目であり、最後の訪問である。彼はディンリに21年間滞在したという。このとき彼はダムパ・ナクチュン(黒いダムパ)という修行者を連れていた。

 パダムパ・サンギェとダムパ・ナクチュンがある谷にさしかかると、象が死んでいた。象の死体は腐敗しはじめ、伝染病を発生する恐れが強まっていた。そこは水源であり、下流の住人に害をもたらしかねなかった。そこでパダムパ・サンギェは肉体を抜け出し、象のなかに入った。象は立ち上がり、どこか遠くへ行って倒れたという。

 しかしもとの場所にもどると、そこに彼の身体はなく、ダムパ・ナクチュンの抜け殻があるだけだった。ダムパ・ナクチュンはパダムパ・サンギェの身体が美しいと思い、主のいない間に入り込んで逃げてしまったのである。

 ダムパ・ナクチュンの黒い身体のパダムパは、この世界を去ってダーキニーの世界へ行こうとしていたが、マチク・ラプドゥンは賛歌をうたってパダムパを引き止めた。この世界でまだ人類に益をもたらすことができることを思い起こさせたのだった。

 こうしてパダムパ・サンギェの教えシジェ(Zhi byed)はマチク・ラプドゥンを通して、チベットに深く根を下ろすことになった。それは執着からくる苦悩を断つ(チュー gcod)テクニックが中核にあった。

 マチク・ラプドゥンの前世はガウリ(Gauri)というインドのダーキニーだった。彼女は衆生に恩恵をもたらすため、チベットのラブ(Labs)に転生した。

 マチグ・ラプドゥンは親の取り決めで、裕福な牧夫のクンガと結婚した。しかしさまざまな罪(動物を殺すこと、それらから毛や乳を盗むことなど)に耐え切れなくなり、ダルマの道に入りたいと思うようになる。親兄弟の激しい反対にあうが、最終的には家を出て、パダムパ・サンギェがいるディンリ・ラコル(Dingri Lakhor)をめざす。しかしようやく会えたパダムパ・サンギェは中央チベットのラタク(Lhatag)へ行くことを勧める。

 そのラタクでは大きな問題が発生していた。降雨の不足のため牛から乳が出ず、ヨーグルト祭り(ショトン)が行なえなかったのだ。マチク・ラプドゥンが天に祈願し、儀礼を行なうと、乳は無事出るようになった。こうして祭りは開催され、彼女は尊敬を集めるようになった。

 ラタク寺の寺主は、しかしより激しい修練を勧め、ラタク寺の瞑想道場であるサンリ・カルマル(Zang ri mKhar dmar)にこもることを提案した。マチク・ラプドゥンは終生ここを拠点とし、瞑想主体の生活を送ることになる。

 パダムパ・サンギェから伝えられた哲学や実践法のなかで、もっとも重要なのはチュー(断)である。チューはボン教を含むチベットのあらゆる宗派が受け入れ、各教義に取り入れた。その「屍林の修行(英語でcharnel ground practice)」は、確立された僧院の修行法とは180度異なるものだった。しかしこうした異端児は、正統派の僧院システムにとってかえって必要不可欠な存在だった。

 マチク・ラプドゥンは女神であり、女修行者であるという意味では、チベット宗教史上燦々と輝く稀有な存在である。たとえばターラは多くのチベット人から愛され、崇拝されているが、あくまで女神である。マチク・ラプドゥンは伝説的な存在ではあるものの、たしかに900年前、生きていたのだ。

 描かれたマチク・ラプドゥンは、ヴァジュラ・ヨーギニーおよびヴァジュラ・ヴァーラヒーと驚くほど似ている。彼女たちは右手、右足を上げ、素っ裸で踊っている。彼女たちは寺のなかで顰め面をして経典を読むのではなく、屋外で、何者にも縛られることなく、踊りながら悟りを開こうというのだ。

 
ヴァジュラ・ヨーギニーとヴァジュラ・ヴァーラヒー

 マチク・ラプドゥンは歌う。

「外側には、私は大いなる勝利の母。内側には、高貴なるターラ。そしてひそかに、私はヴァジュラ・ヴァーラヒー。そして外側には、四人の眷属のダーキニーは四つの元素。内側には、四人の知恵のダーキニー。ひそかに彼らは四つの音節。ブッダ・ダーキニーは白い音節のHA。……」

 金剛亥母(ヴァジュラ・ヴァーラヒー)すなわち金剛のブタは、意外なことに、知恵の象徴である。あれこれと縛られっぱなしの男たちを尻目に、彼女たちはダイレクトに真実を見ることができるかのようである。

 最後にチュー(gCod)の儀式について触れたい。チューについては、早くは14世紀のニンマ派高僧ロンチェン・ラブチャムパ(kLong chen rab ‘byams pa 1308-63)が記し、20世紀になるとエヴァンス・ウェンツとカズィ・ダワサムドゥプ、およびアレクサンドラ・デヴィッド=ニールらによって西側社会に紹介された。

 儀式の場所はつねにうら寂しく、おぞましい場所、とくに墓場が選ばれる。儀式に必要なのはダマル(揺鼓)、カンリン(人間の頚骨から作った笛)、鈴、そしてある特殊なテントである。
 朝、行者はまず「白い供犠の食事」で祝福する。昼間には「混じりあった」食事、夕方には「黒色」の食事、夜の間は「おぞましい赤色」の食事で祝福する。黒色の食事の間、行者はすべての悪いカルマ、精神の汚れ、病気、悪、罪、世界の苦悩をかきあつめる。赤い食事の間、行者は彼の自己主義的な生活や行動にたいしての償いとして自身の身体を餓鬼に捧げる。彼は自分の頭から全体を切り刻んでいき、ばらばらにして、生贄として捧げるのである。(ホフマン『チベットの宗教』)