チベット仏教瞑想の方法 

ペマ・チュードン 宮本訳 

 

序章 いちずな生き方の選択 

 「今、この瞬間」の原理(the principle of nowness)は、目覚めた社会を確立するにおいて、とても重要なことです。最善のアプローチが社会を助けることなのだろうか、またあなたのしていることが本物で、役に立っているとどうやってわかるのだろうか、そんな疑問が湧いてくるかもしれません。唯一の答えは「今、この瞬間(nowness)」です。リラックスの仕方、つまり心を「今、この瞬間」においていかに休めるかは、瞑想の実践によってしかわかりません。瞑想によって、バイアスがかかることのないアプローチの仕方が理解できるのです。物事はあるがままにしておかなければなりません。自分で勝手にきめるべきではないのです。あなた自身がそこから学ばなければならないのです。

          ――チューギャム・トルンパ・リンポチェ 

 

苦悩の根源は心 

 心というのはとても自由気ままです。そして人は、予期できぬことや矛盾したこと、楽しみや悲しみ、成功や失敗などたくさんのことを経験します。存在という広大な領域で、どんな経験からも私たちは逃れることができません。それによって人生が偉大なものなることがあります。同時に、荒波にもまれることにもなるのです。人生があらぬ方向へ向かおうとも、瞑想で自身を鍛えることによって、心を開き、受け入れるならば、あるいは人生の困難に立ち向かい、荒波にうまく乗っていくならば、どんな状況に置かれても、冷静さを失わず、ゆったりとかまえることができるでしょう。

 心と上手くやっていくには、いくつかの方法があります。もっとも効果的なのは、座して瞑想をおこなう方法です。座禅によって私たちの人生の一瞬、一瞬を開くことができます。あらゆる一瞬がユニークで、知られざるものなのです。私たちの精神世界は予測できるもの、把握できるもののように思われます。私たちは、すべてのできごとを通じて考えること、生活においてすべきことは、たしかなものであり、危険ではないものと信じています。しかしそれは幻想にすぎません。うわべの概念を離れると、すべての一瞬、一瞬が完全にユニークなのです。まったくもって、このことは知られていませんが。まさにこの瞬間を経験したことはありません。そしてつぎの瞬間はいまの瞬間とおなじではないのです。瞑想は、どのようにダイレクトに生命と結びつけるかを教えてくれます。そうして私たちはうわべの概念を離れ、いまこの瞬間を真に経験することができるのです。

 ダルマ――言い換えるならブッダの教え(仏法)、真実であるところのもの――を見てみると、瞑想の実践によって、その意図が苦悩を除くことであることがわかります。多くの人々が瞑想に惹かれるのは、こうした理由があるからです。彼らは苦悩を背負わないかぎり、瞑想の姿勢をとって坐ることはありません。しかし仏教の教えによれば、苦悩の状態を取り除くだけでなく、苦悩の原因、あるいは源を取り除くのです。ブッダは言いました。「わたしが教えるのはたったひとつのことである。苦悩と苦悩を止めることである」と。

 本書では、苦悩の根源は心――私たちの心――であることを強調しています。そしてまた、幸福の根源も心であることを。聖者シャンティデーヴァは、『ボーディチャリヤヴァタラ』のなかで、苦悩のテーマについて論じながら、いかに苦悩から逃れようとしているかの有名なたとえ話を引き合いに出しています。もし地上を歩き、あなたの足が痛んだとしたら、動物の毛皮で大地を覆いたいと考えるかもしれません。そうして地面の痛みから逃れられるでしょう。しかしそれだけの量の毛皮をどこから入手すればいいでしょうか。それよりも毛皮の端切れを足に巻くほうが早いでしょう。そうすれば世界全体を毛皮で覆わなくても、あなたはいつも守られているのです。

 言い換えるなら、あなたは延々と、状況を外側から改善して苦悩を止めようとしてきたのです。それはいつもわれわれすべてがしていることなのです。それは通常のアプローチです。あなたは何度も、何度も、何度も外側の問題を解決しようと取り組んできました。しかしブッダはとても画期的なことを言っています。わたしたちのほとんどはそれをよくわかっていないのです。もし心の問題を解決していくなら、外側から来ているように思われる苦悩のすべてを緩和することができるのです。何かがあなたを苦しめているとします。たとえばだれかがあなたにまつわりついているとします。この状況はあなたをいらだたせるでしょう。あるいは体の痛みにあなたは悩んでいるかもしれません。そんなときあなたは心をうまく扱わなければなりません。それは瞑想によって成し遂げられるのです。心を扱うことが唯一の方法なのです。それによってわれわれは実際、幸せを感じ、生きている世界に満足するようになるのです。

 苦悩という言葉を識別するのは重要なことです。ブッダが「私が教えるのはたったひとつのことである。苦悩と苦悩を止めることである」と語るとき、ブッダは苦悩にドゥッカという語を用いています。ドゥッカは痛みとは違います。痛みは喜びとおなじく人間の生活においてなくなることがありません。身体と心を持つあらゆる者、そしてこの世に生まれるあらゆる者からなくなることはないのです。

 ブッダは「わたしが教える唯一のことは痛みについてであり、痛みを止めることである」と言ったわけではありません。ブッダは痛みとは何か語ります。すなわちあなたは成長して、おとなになって、老い衰えて、人生に痛みはつきものという事実と直面することになります。愛する人が死んだとき、痛みを感じないような、悟りの境地というものはありません。階段から転げ落ちてもケガひとつしない、そんな不死身の状態などありません。年老いて、背中や膝に痛みをかかえる、それはごく普通のことです。こういったことはありふれたことなのです。

 悟りを得た瞑想家にさえ感情というものがあります。人の内側にはエネルギーがうごめいているのです。憂鬱、恐怖、不安と呼ぶ、より重い、より抑圧的なエネルギーがあるのです。こういった感情のエネルギーは、日々天候が変わるように、すべての生きもののなかでうごめいています。悟りを開いた者であろうとなかろうと、わたしたちの内なる天候は、つねに移り変わっているのです。問題は、変化しやすいエネルギーをどう取り扱っていくかということです。それらを完全に認識し、排除し、息の眼を止めるべきなのでしょうか。

 ドゥッカという言葉は(「苦」以外に)「不満」とか「けっして満足しない」などとも訳されます。ドゥッカは、人がつねに人間のありかたの現実に不満を覚えているかぎり、つまり愉快な状況と不愉快な状況が人生の一部であることに不満を覚えているかぎり、死滅することはありません。すべての生きものは楽しい、納得できる、安楽な、安心する感情を欲する強い傾向があります。もしいかなる形であれ痛みがあるなら、つまり賛成しかねるもの、心地よくないもの、安心できないものがあるなら、それから走って逃げようとするものです。だからこそわれわれは瞑想というものに目を転じることになるのです。

 

 


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