ラン氏犀角宝巻(ラン・ポティセル) 宮本神酒男編訳 

チャンチュブ・デコルとリンのケサルの受施・施主関係 

<解説> (宮本) 
 一族の歴史書「ラン・ポティセル」(14世紀)に登場するケサル王に違和感を感じてしまうのは、主役のヒーローの座をチャンチュブ・デコルに譲ってしまっているからだろう。このケサル王は、世俗的な権力を持ってはいるが、精神的な卓越性はないように見える。天界から降臨した、スーパーパワーを持つ英雄とはとうてい言えない。
 このケサル王がフィクションであるかどうかは、一応疑ってみるべきだろう。11世紀ごろデルゲ(四川省徳格)あたりに実在したとするなら、歴史上のケサル王は「ぱっとしない人物」(ジェフリー・サミュエル)だったことになる。とくに重要なことは、魔を倒すのがケサル王ではなく、チャンチュブ・デコルであるということだ。「英雄ケサル王物語」の本筋が、ケサル王が周囲の魔の国を倒すことにあるとするなら、このケサル王はわれわれの知るケサル王とは別人ということになってしまう。
 しかしセンロン(父)やトトン(叔父)、タゲン(族長)、ギャツァ(異母兄)といったおなじみのケサルの親族の名が挙げられていることからすると、「英雄ケサル王物語」が意識されているのは間違いない。真の英雄はケサル王ではなく、ラン氏の祖先のチャンチュブ・デコルだと言いたいのかもしれない。
 ケサル王(施主、パトロン)とチャンチュブ・デコル(受施者)の関係は、フビライ・ハーン(施主)と国師、帝師のサキャ派ラマ(受施者)のチョヨン関係(
mchod yon)を反映しているのかもしれない。ラン氏のパクモドゥパは、サキャ派にかわってチベットを支配したが、サキャ派の宗教を受け継いだ面もあった。サキャ派の概念であるラムデ(道果)という言葉が頻出するのはそのためである。シッディ(修行によって得た超常的な力)という言葉も同様である。シッディを自らの努力で得るのではなく、聖人チャンチュブ・デコルから受け取るケサル王の姿を見ると、少々悲しくなってくる。

 チャンチュブ・デコルは東方へ向かった。ダゲルツォ山の麓に着いたとき、リン国王ケサルは羅刹(ラークシャサ)の黒い避雷大衣、羅刹の多色宝剣、羅刹の黒褐色の馬を(チャンチュブ・デコルに)献じ、不老不死の灌頂を授けてくれるよう懇願し、言った。

「凶悪な鬼神と戦うとき、どうかわが身体を守ってください」

 チャンチュブ・デコルは答えた。

「あなたに死の危険が差し迫ったとき、私がいかに努力をしたところで、どうしようもないでしょうか。いえ、修行を積んできた私があなたの守護神となります。あなたに災難が降りかからないよう請け負いましょう。あなたは88歳の寿命をまっとうするはずです」

 このとき積石山の山神を長とするドカム地区(東チベットや北東チベット)のすべての神々がやってきて(チャンチュブ・デコルを)出迎えた。すると、ダーキニーがシッディ(成就)を献じてくれた。これもまた得ることのできた「道」(ラム)である。

 (チャンチュブ・デコルは)テギャ(the rgya)地区のレギュ地方、すなわち中国のタオ(サンズイに兆)州楊烈地方へ行き、中国人の宮殿を平定し、勝利の文をあきらかにしたあとその地に駐留し、寺院を建ててそこで修行した。ダーキニーがみなあつまってきて、シッディを奉じた。これもまた道果となるだろう。

 彼が諸仏と会っている間、ケサルは贈り物をするために馬に乗って中国にやってきた。そして開口一番に言った。

「私(ケサル)はあなたをお迎えするためにやってきました。チベットに来ていただいて、ヨーガの道果を示していただきたいのです。そのために私は銀の刑場ラッパ、仏法の音を叩く太鼓、刑場の黒い勝利旗、および中国の無数の財宝を献じます」

 このときダーキニーが現れ、大成就者に向かって予言を与えた。

「ウッディヤーナ上部より北に、羅刹の男女が集まり、テルマ(伏蔵)を作りました。それには『歴史の松明』『宗教を支える象』のほか、ヨーガ行者のあなたが必要とする『ラン氏犀角宝巻』や経論類が含まれているのです。ヨーガ行者はリン国の小者にいつまでも未練を持ってはいけません。その者の言葉を聞いたり、信じたりする必要はありません。なぜなら厖大なテルマが発掘されるのを待っているからです」

 これを聞いたチャンチュブ・デコルはリンのケサルに向かって、言い聞かせるように述べました。

「西方のウッディヤーナに男女ふたりの羅刹がいて、あなたに調伏されるのを待っています。北に赤い岩山があり、その麓に青蛙に似た青緑色の岩があります。その下にたくさんの巨大なテルマ(伏蔵)が眠っていて、あなたに発掘されるのを待っているのです。発掘されたなら、私もすぐにチベットへまいりましょう」

そう言うと、阿闍梨姿のパドマサンバヴァ像、隠身木(隠身術に使うカラスの巣の枝)、護身符をケサルに掛けた。

 ケサルはすぐに出発し、男女ふたりの羅刹を調伏し、巨大なテルマを発掘した。

 このときペーサン・ミパム(dPal bzang mig bam)は、シッディを獲得しているという評判が高かったチャンチュブ・デコルを迎えた。

「おのれの郷里にとどまらず、長年異郷をさすらっているのはどうしてでしょうか。われらの地域にもぜひいらっしゃってください」

 大成就者は答えた。

「われら叔父や兄弟たちと会い、ここにとどまるか去るかについて話し合います。今夜の夢占いを参考にすることになるでしょう」

 その夜、ダーキニーが予言をもたらした。

「ヨーガ行者であるあなたは旅立ちの時間を迎えます。あなたは上部地方に生まれ変わることになるでしょう。あなたの後継ぎは3人です。彼らは上部地方を本拠地とします。ヨーガ行者が上部地方に行くのは、来月15日がよろしいでしょう」

 ここで成就者は言った。

「来月30日、それがどこであろうと、甥たちのところに行きます。甥よ、早く出発してください」

 ペーサン・ミパムは言った。

「来月28日、施主とわれらラトゥン(Lha ston)一族は、リショルヨギャンド(ri shor yo rgyang mdo)であなたを歓迎します。縁起がいいのは辰の日、来月の30日でしょう。私はゴンチェンタン(gong chen thang)でお迎えいたします。早くから法縁を結んだよしみで施主をさせていただいています」

 チャンチュブ・デコルはその通りにすることを約束して、出発した。チャンチュブ・デコルが出発するとき、中国やチベットの神々がすべて集まってきた。巡礼をするときも、氏iれい)神や守護神は彼に向かって誓いを立てた。成就者は言った。

「あなたがた守護神は火を奉じます。天母らは水を汲み、ヨーガ行者は火をたき、善悪両種の茶を作ります。いま、チベットへ行く時機がやってきました。ダーキニーが私を迎えてくれるでしょう。わが修行場所と仏教を守ることに関し、ダーキニーは面倒を見てくれます。私はニェンサン・ラトゥンをタオ州のラマ(座主)とさせましょう」

 ニェンサン・ラトゥンは言った。

「この地は凶の土地であり、鬼神は暴虐です。私はあなたのお伴をしてここから出ていきたいと考えています」

 彼はそれに対し答えて言った。

「私は天母や守護神をとらえてあなたがた甥に与えようと思います。教えや経典も甥であるあなたがたに与えます。寺堂や屋根の金の飾りも与えようとしています。ダーキニーのシッディをあなたに与えます。タオ州の中国、チベットの施主もあなたに与えます。中国の五台山の文殊菩薩はあなたの本尊神となるでしょう。タオ州の中国、チベットの諸鬼神はあなたがた甥の使者となるでしょう。あなたがた甥300人は、タパ(お坊さん)となるでしょう。アロ・トゥンパ(A rog ston pa)が贈ったという盤石太鼓を取ってきてください。私は風によって馬に乗ります。必要なときには速攻でやってくることができるのです」

 こう述べると、盤石太鼓にまたがり、空の高みへと消えていった。空にはダーキニーの姿もあった。

 リン国領域のゴルタに達すると、リンのケサル自身がユ地区上部にやってきた。リン国中の人々が贈り物を持って集まってきた。

 ケサルは『歴史の松明』『宗教を支持する象』『ラン氏犀角宝巻』、仏法の音を叩く太鼓、刑場の銀のラッパ、人を怖がらせる黒旗、阿闍梨パドマサンバヴァの経典、冠、衣服、履(くつ)、そして白い額の馬に似た盤石などを贈った。ケサルは述べた。

「あなたは道を得たヨーガ行者です。仏教をよく守り、凶悪な鬼神を調伏し、リン国の人口と富を増やし、人や家畜の疫病を除き、チベットの平穏について気を配っていただきました。成就者が現世にいる間、集会を希望し、この世が無常であることを知らしめます。できるなら私を極楽世界へ連れて行ってください。このつぎにはだれよりも早く贈り物をしたいものです」

 (ケサルの父)センロンは色とりどりの綿羊を贈った。(長老で総監の)タゲンは白い橡の木を贈った。(ケサルの叔父でヒール役の)トトンは黒い腰刀を贈った。(七大勇士のひとり)ドンブは白い華蓋を贈った。(ケサルの義兄)ギャツァ・シェカルは白いカタを贈った。

 まとめるなら、リン国30名の首領、30名の勇士、30名の青年、30名のラマ、30名の尼僧それぞれが贈り物を献じた。成就者は言った。

「この雪の国チベットで、もし人を害する鬼神があるなら、調伏されなければならない。私を通じて教えと灌頂が授けられたあと、施主であるあなたがたによって降伏させられるべきである。もし十の不善を離すことができたなら、十の善を行うことが可能である。もし修練したなら慈しみの心が生じるだろう。もしグルを観想することができたなら、加持。を得ることができるだろう。もし本尊を観想することができたなら、シッディを得ることができるだろう。慈悲ならびに布施を学んだなら、罪悪な行ないをやめ、善行をのみおこなうようになる。このように福徳は継がれていく。善悪の区別がつくようになり、福ある者の法縁が生じる」

 これにつづいて種々の経典について説明を述べた。そしてこの地を離れるとき、リンのケサルは言った。

「雪の国チベットに危害を加える一切の鬼神で、私がいまだ征服していないものもあります。もし阿闍梨であるあなたの教えを尊重しないなら、すべての有情を殺すことになってしまうでしょう。領土も失ってしまうかもしれません。いま誓いを立て、東方の尋香王(Dri za’i rgyal po)、南方の閻羅王(gShin rje)、西方の羅刹王(Srin po dbang)、北方の男女の夜叉(gNod sbyin)の調伏をお願いしています。チベットに利益(りやく)と平穏がもたらされるようお願いしています。リン国の8つの平原と上部地方をあなたに献じ、それはアレンロとなります。リン国のどこに安楽があるでしょうか。道果を得たあなたはここに錫杖を置くでしょう。白い額の馬に似た巨石をあなたに献じます。それに乗ろうとする魔物を降魔してください」

 受施・施主の関係にある二人は、リン国の8つの平原地方にあるヨルデヤクタン(yol de yag thang)とリン国の上下部を訪ねた。彼らは額の白い馬に似た巨石の前に逗留し、三宝を祭り、護法神に食事を献じた。またダーキニーに向かってシッディを賜るよう祈った。ダーキニーはシッディと予言の言葉を与えた。

(つづく)