イスラム教以前の宗教

唐代の疏勒大雲仏寺の遺跡か(?) カシュガル郊外モール仏塔

<シャーマニズム>

 中国新彊ウイグル自治区ハミ市の市街地から70キロ離れたウイグル族の四堡郷で私はバクシ(シャーマン)による治療儀礼を見ることができた。迷信活動を見たという罪(!)でその日の夜遅く、警察に拘束されてしまったのだが。

 このひどい逮捕劇の顛末についてはほかの場所で述べることにしたい。シャーマン儀礼に私は驚かずにはいられなかった。ウイグル帽を被り、クルアン(コーラン)を読み、アラーに祈る姿はイスラム教徒そのものである。しかし三人の助手が太鼓を叩きながら歌い、部屋の中央に垂れ下がったロープにしがみついた患者のまわりでバクシが歌いながら、剣や鞭をふりまわし、鶏を患部にあてながら治療するさまは、シベリア・中央アジアのシャーマンを想起させる。中央のロープはもともとテントの中央に張られ、天地を結ぶ宇宙軸(アクシス・ムンディ)を象徴しているのだろうか。しかし現在のバイカル湖近辺のブリヤートのシャーマン儀礼を見ると、テントの中ではなく、外の白樺の木を宇宙軸に見立て、そこに神が降臨する。彼らはその白樺の木の枝に色とりどりの布切れを掛けて飾るが、ウイグルもロープの上部に色とりどりの布切れを掛けて飾る。

丁零の頃か突厥の時代かわからないが、かつて中央アジアの草原の遊牧民だった頃のシャーマニズムが、イスラム化して形を変えながら、何百年もたった今も残っているのだ。

 『オグズ可汗伝説』という叙事詩によれば、ウグス可汗が大集会を開くとき、大テントの左右両側に竿を立て、金鶏、銀鶏を竿の上に置き、黒羊、白羊を竿の下に繋げたという。これは現在マザ(聖者の墓)のまわりに竿を立て、羊の頭や皮をかける習俗として残っている。

 『隋書』によれば、突厥は毎年五月、羊や馬を殺し、天を祭った。また『魏書』によれば、高車(部落)は雷鳴が轟くと、叫び声をあげながら天に向かって矢を放った。秋になると雷が落ちた所へ行き、羊を埋め、火を熾し、刀を抜き、巫女が祝詞を述べた。そして騎馬隊がこの場所を囲い込んだ。

 『旧唐書』「ウイグル伝」中、安史の乱の末期、ラ・タルカン率いるウイグル部隊が郭子儀率いる唐の部隊と遭遇し、戦わずして投降する場面がある。このとき巫師が重要な役割を演じている。出発した日、ふたりの巫師は「この遠征は非常に安泰でしょう。しかも遠征軍は唐の軍隊とは戦いを交えないでしょう。ひとりの立派な人に出会って帰ることになるでしょう」と占ったという。郭子儀はそう聞いて満足したのか、巫師の背中を撫でている。この一文から遠征軍はつねにシャーマンを連れていたことがわかる。シャーマンは儀礼を執り行い、治療をし、占いもするのである。現在のウイグル族のバクシ(シャーマン)も治療儀礼のほか、占いを重要な活動のひとつとしている。

 『旧唐書』の上記のすぐあとに、唐・ウイグル連合軍が吐蕃と戦う折り、ウイグルが「巫師に命じて風雪をおこさせ、月の明るくなるのを遅らせてから戦った」と記されている。ウイグルのシャーマンは自然を変えるほどのすさまじい呪術的な力をもっていたのだ。

 時代はすこし戻るが、『新唐書』によると、641年、薛延陀(アルタイの西南が本拠地の部落)の軍隊が北方へ敗走するとき、シャーマンによってジャダという魔術で雪を降らせ、追っ手をかわそうとしてかえって自軍の兵が遭難してしまうという場面がある。これもシャーマンが従軍している一例だろう。

 現在のシャーマン(バクシ)にはそこまでの力はないかもしれないが、治療や占いなどは村で日常的におこなわれている。私が会ったようなバクシは、ハミだけでなく、すくなくともホータンやカシュガルにもその存在・活動を確認することができる。しかしウイグル族の文化への弾圧が続くなか、十年後、二十年後もその伝統が生きながらえているかどうか、私は確信をもつことができない。

 

<マニ教>

 マニ教は消滅してしまった元・世界宗教と言っていいだろう。西は北アフリカやイベリア半島から東は中国東海岸まで、3世紀から12世紀のフランスのカタリ派の時代まで(あるいは中国・明代まで)の千年間、それは信仰されていたのである。これまでマニ教については敵方、たとえば元・マニ教徒で回心した神学者アウグスティヌス(354−430年)の情報に頼らざるをえなかった。それが一世紀前から発見され始めた高昌遺跡の文書や壁画などからマニ教の姿がよりはっきりと見えるようになったのである。上述のようにウイグルの牟羽可汗がマニ教を国教とした(763年)のは後世の歴史学者にとってはありがたい出来事なのだ。

 開祖マニ(216−277年)はパルティアが滅亡する十年前にペルシア人の両親のもとにバビロニアで生まれた。父親は現在もかろうじて残っているとされるマンダ教(浸礼を重んじた)の信者で、マニ教はその影響を強く受けている。マニ教がこれほどにも長い間多くの人を惹きつけてきたのは、その教義にあるペルシア的な、ゾロアスター教とも共有する善悪、光と闇の二元論だろう。マニの創世神話は壮大で、ドラマティックで、CG映画にしたらきっと面白いだろうと思うほどだ。しかし教義は現世否定、肉体忌避につながり、信者は他宗教と比べてもより戒律の厳しい生活を送ることになった。

 ウイグルにマニ教をもたらしたのは、シルクロードの商人、ペルシア系のソグド人だろう。ソグド人は元来ゾロアスター教徒が多かったが、3世紀後半、サーサーン朝ペルシア支配下でマニ教が弾圧されたとき、大量のマニ教徒がソグド人の多いサマルカンドあたりに難を逃れてやってきたという。

 隋唐代、トルファンとアルタイ、ロプノールにはソグド人居住区があった。唐代・貞観年間(627−649年)に廃墟と化していたロプノールに大きな町(蒲桃城、あるいはサピ城)を築いたソグド人康艶はマニ教徒だった。

 上述の牟羽可汗は763年、国教宣言をする前、洛陽に駐屯しているとき、四人のマニ僧と出会う。彼らはソグド人と思われるが、改宗した漢族や他の民族であった可能性もある。よほどインパクトが強かったのか、可汗はその四人の僧を国につれて帰り、都督、刺史、内外宰相らもみなマニ教に改宗することになるのだった。時代は安史の乱の終盤、大量の血が流れ、裏切りが日常茶飯事の時世、だれもが絶望的な感覚をもっていたのかもしれない。

 817年、唐朝が帰国するマニ僧8人のために宴を開いたという記事を『旧唐書』に見ることができる。9世紀はなお、可汗の周囲にマニ僧三、四百人が集まり、マニの著作を読むというようなことが行なわれていた。

 だが次第にマニ教熱は下火になり、『宋史』によれば、北宋太平興国七年(980年)には高昌のマニ寺はたったのひとつになっていた。みな仏教に改宗したのである。仏教寺院は50を越えたが、マニ寺院が鞍替えしたのかもしれない。そもそも玄奘法師が七世紀前半に高昌を訪ねたときは仏教が盛んだったのだから、元に戻っただけのことかもしれない。

 

<仏教>

 仏教がカシミールから現在の新彊・ホータンに伝来したのは中原よりも一世紀早く、紀元前1世紀のことと考えられている。その後ホータンとクチャを中心にいわゆるシルクロードのオアシス都市に仏教は伝播していく。

 『晋書』にはクチャ(キジル)について「城郭あり、三重の城の中に仏塔・廟、千箇所あり」と描写している。

 『魏書』はホータンについて「その俗、仏法、とりわけ寺塔、僧尼をはなはだ重んじる。王の信仰篤く、精進の日を設け、みずから清めて供え物を献じる」と仏教がさかんである様子を述べる。

 法顕(337−422)の『仏国記』からはもっと具体的に当時の様子を知ることができる。ホータンには数万もの僧侶がいて、大多数は大乗仏教を学んでいた。法顕が逗留した瞿摩帝(くまてい)寺だけでなんと三千人の僧侶を擁していたという。

 中国仏教の礎を築いた鳩摩羅什(クマーラジーヴァ 350−409)はこういう仏教文化が花開いた地(クチャ)に、インド人貴族の父とクチャ国王の妹である母のあいだに生まれた。母に連れられて6歳のときに出家、9歳になってカシミールに行きアビダルマ仏教などを学ぶが、19歳のとき、須利耶蘇摩(スーリヤソーマ)と出会い、大乗仏教に転じた。384年、後涼の呂光がクチャを攻略、鳩摩羅什を捕虜として連れ去った。それ以降18年間呂光の軍師として仕えた。401年、後秦の姚興に迎えられ、長安へ行く。翌年、女性との関係を強要され、破戒僧となってしまった。もう52歳だったのだが……。それ以降翻訳事業に取り組み、厖大な漢訳経典が生まれたのである。

 鳩摩羅什が翻訳した経典(旧訳)は、『中論』『大智度論』『妙法蓮華経』『摩訶般若波羅蜜経』『維摩経』など大乗仏教の基本的な経典であり、以降の玄奘らの翻訳(新訳)の基盤となったことを考えれば、中国仏教の方向性を決定づける事業だったといえる。

 それではクチャや高昌、ホータンではどのような仏典が読まれていたのだろうか。サンスクリット原典をそのまま読んでいたのだろうか。ウイグル国(744−840年)以前の経典が遺跡から出土していないので、原典を読んでいたと推測するしかない。

 ウイグル語に翻訳された経典で発見されたなかでもっとも古いのは、トルファンやハミから出土した、(推定)9世紀成立の『弥勒会見記』(Maitrisimit)である。この経典はトカラ(吐火羅)語から翻訳されたものだという。この経典がいくつか出土しているということは、芝居や語りの底本として使われた可能性を示すとともに、弥勒信仰があったことを表しているだろう。

 9世紀以降となると、漢訳からウイグル語に翻訳した経典が増えてくる。ベルリンの博物館に保管されている『法華経』はソグド語からウイグル語に翻訳されたのではないかと推測されるが、ほかのものは漢訳、とくに鳩摩羅什の訳からウイグル語に翻訳されたものである。『法華経』のなかでも『観世音菩薩普賢品』が独立してウイグル族のあいだでポピュラーだった。

 もうひとつ広く流布していたのが『金光明最勝王経』である。これはサンスクリット原典を義浄(635−715年)が漢訳し、それを勝光法師(Singqo Sali Tutung)が1022年にウイグル語に翻訳したものである。この経典がポピュラーだったということは、また、浄土信仰がさかんであったことを表しているだろう。

 そのほか『大般若経』『金剛経』『普賢行願』などが漢訳仏典からウイグル語に翻訳された。『普賢行願』は時代が下って元のモンケ汗・フビライ汗の時代、ビシュバリク(現在の新疆ジムサ)の安蔵(?−1293)によって訳出された。安蔵は『華厳経』『文殊所説最勝名義経』『聖救度仏母二十一種礼賛経』など多数の仏典を翻訳した。

 偽経もまた中国仏教同様、ウイグル仏教のなかで大きな役割を担った。とくに『父母恩重経』と『仏説天地八陽神呪経』がポピュラーだったが、これらも中国で作られたものだった。

 チベット語訳経典からウイグル語に翻訳されたものもかなりあるが、13世紀以降のものにかぎり、チベットが西域を支配した7、8世紀の翻訳はいまのところ発見されていない。チベット語訳経典が底本となっているものを列挙すると、『仏説勝軍王問経』『大乗無量寿経』『吉祥勝楽輪曼陀羅』『文殊師利成就法』『甚深道上師瑜伽』『大白傘蓋総持陀羅尼経』『仏頂尊勝陀羅尼経』『聖救度仏母二十一種礼賛経』『文殊所説最勝名義経』『八大聖地制多賛』『供物儀軌』のほか、ナーローパの著作などである。世界帝国である元では民族間の交流が活発であったことがこの翻訳事業からもわかる。残念なことに、ユグール族をのぞいたウイグル族はイスラム化してしまい、残るユグール族はチベットの影響を強く受けてしまったため、チベット語経典はそのまま読めてしまうという事態になってしまった。

 

<ゾロアスター教>

 開祖ザラスシュトラ(ゾロアスター)がいつ生まれたのかいまだ定説はないが、紀元前700年頃にバルフ(現アフガニスタン。13世紀初、ルーミーが生まれた)で生誕したという説が有力である。中国の史書はバルフを大夏と呼んだ。前漢の使者張騫が蜀の竹杖と布を見たのもここである。

拝火教とも呼ばれるように火を崇拝したが、ほかにも太陽、月、星なども崇拝した。善神アフラ・マズダーを主神とし、善悪、あるいは光と闇が戦う二元論を世界の原理とした。

サーサーン朝ペルシア(226−651)がゾロアスター教を国教としたことにより、中央アジアからさらに東の方へ伝播する環境が整った。出土物から5世紀初にはトルファンで?教(ゾロアスター教)がさかんであったことがわかっている。『魏書』には、焉耆や高昌では「俗、天神に事(つか)え、かつ仏法を信じる」と記されている。高昌には隋や唐より先に薩宝(神官)が置かれたという。高昌の統治者は仏教信者だったが、民衆の間ではゾロアスター教信者が少なくなかった。

唐代晩期になると中原では衰退したものの、新疆ではカシュガルやホータンを中心になお勢力を保っていた。この頃伊州(ハミ)のゾロアスター教徒ティバンタは京へ行き、神がかりや腹に剣を刺す魔術を見せたという。

五代や宋代はまだゾロアスター教が衰えることはなかった。10世紀の旅行家イブン・ムハルヒルによると、ホータンのビモにはまだ多くのゾロアスター教徒がいた。しかしペルシア人のイスラム教化が進むにしたがい、徐々に姿を消していった。

 

<景教>

 中央アジアから中国にかけて意外なほどの信者を獲得したのが景教、すなわちネストリウス派だ。ネストリウス派は、431年のエフェソス会議において異端とされたアンティオケア学派のネストリウスが唱えた説を基とするキリスト教の一派である。イエスは神性と人性の両方をもつが、位格はひとつであるという正統派にたいし、ネストリウスは神格と人格のふたつであると主張した。マリアは人格においてイエスを生んだとしたのだ。

 この教義の違いは決定的だが、中央アジアや中国の人々にとってはどうでもいい違いだったろう。ヨーロッパを追放されたネストリウス派はあらたな信者市場を東にもとめ、その情熱でもって、6世紀にはアフガニスタンやインドにまで布教活動を広げていった。新疆や中国にネストリウス派が入ったのも6世紀から7世紀にかけてのことと思われる。

 トルファンなどから、壁画やネストリウス派の十字架が多数見つかっているが、いずれもこの時代のものだろう。

 カラキタイ(西遼 1132−1211年)は宗教に関して寛容であり、ネストリウス派はこの統治下で息を吹き返した。ネストリウス派を信仰するナイマン部が新疆に入り、信者も増えた。元代になり、ネストリウス派は25の教区を設けたが、カシュガルは第19教区だった。マルコ・ポーロによれば、カシュガルのほか、ヤルカンドやホータン、イリ、トルファン、ハミなどにネストリウス派の教堂があったという。

 元代、モンゴル文字の創成に携わったウイグル人タータートンアはネストリウス派だったという。その四人の息子ら、著名なネストリウス派信徒が数多く輩出された。

 中世ヨーロッパで有名だったプレスター・ジョン伝説も、おそらく宗教に寛容だったカラキタイ、元代のネストリウス派の活躍があいまって、形成されたものにちがいない。

 しかし明代になると急速に衰えていった。